ハイブリッド文化の精華「漢字とカナ」の融合・・・ 50

 「日本人は縄文×弥生のハイブリッド民族」だと言ってきた。 ではどのような文化が生まれたのだろうか。その最大の精華こそ「漢字と仮名文字をドッキングさせた日本文字」の創造であった。

 聖徳太子が随の煬帝(ようだい)に送ったという「日出ずる国の天子〜」で始まる書簡によって、チャイナ文化・文明への決別宣言以降、和漢折衷型の平城京文化を経て、菅原道真の決断で遣唐使を廃したあと、平安の京の都から見事に和風回帰する。

 万葉集では、チャイナ風の韻律や平仄(ひょうそく)を捨て去って、五文字と七文字の組み合わせの繰り返しが長々と続く長歌の最後の部分、五・七・五・七という、三一文字だけを抽出した「和歌」という短詩形式を完成させる。その後は鎌倉時代の「わび(侘び)・さび(寂び)」という日本特有の美意識まで創造し、ついには短歌の終わりの七・七の14文字までをも捨て去った、五・七・五の一七文字の発句=俳句にまで凝縮し昇華させてしまうのである。こうした事例
は日本の歴史を通じて枚挙にいとまがない。(ちなみに最後の七・七を「挙句(あげく)」という)

 もっとも「漢字とカナ」の融合という世紀の大実験が、なにもすんなりと成功したわけではない。そこには相も変わらぬ頑強で厚い「官僚の壁」があり、「省あって国なし」という悪習が、近年生まれたものでないことを教えてくれるし、それを打破するためには、並々ならぬ努力と知恵が必要だったことも教えてくれる。

 平安の御代になってチャイナから移植した律令が破綻し、平安王朝の財政は危機に瀕していた。そこで時の右大臣菅原道真(845〜903)は、寛平六年(894)遣唐大使に任じられ中断していた遣唐使の派遣を検討するが、唐の衰退が進んでいるという情報からそれを諦め、自らの手でそれを解決する必要に迫られることになった。なお、唐の滅亡は907年のことである。

 そこで道真は、地方の土地を地元の豪族に与え、分に応じた租税を徴収する策を採ろうとするが、役得と賄賂(まいない)の減少を嫌う官僚の反対で計画は難航し、その挙げ句讒言による左遷で九州太宰府の地に左遷されることになった。また道真の後を継ぎ、その政策を踏襲した藤原時平(886〜909)もまた、同じように官僚の抵抗に遭い、計画は頓挫して一歩も前進しなかったのである。

 いつの世も官僚は、自らの世界を墨守して、新しい文化の風を拒むのが常である。破綻した律令を頑なに守り、自らの知識をひけらかす道具として、漢文からの脱却を頑強に拒むのであ
る。この傾向は、今の時代に到っても、官僚そして学会という閉鎖社会でも顕著である。まさに弥生の悪い面の真骨頂といえるだろう。

 そこで時平は、和歌によって官僚を手なずけるという妙案を実行することになる。まだ漢詩に押されてマイナーな地位に甘んじていた和歌の読み手の多くは、若手の下級官僚であったが、時平は紀貫之を始めとする四名の歌い手に「古今和歌集」の編纂を命じ、醍醐天皇(885〜930)の勅選和歌集として世に出たのが延喜五年(905)であった。

 ご存じのように最古の歌集は「万葉集」だが、それは「万葉仮名」と呼ばれ、例えば「仮=仮、名=な」というように、漢字の音を日本読みしたものであった。その後漢字の草書を更に砕いた書体である「かな文字」が出来ていたのだが、それを使って新しい和歌集をというのが時平の作戦であった。

 格式を重んじる官僚も、先祖たちの古い歌を持ち出されては無下には反対出来ず、ついに「かな文字による古今和歌集」が完成、さすがに頑強な官僚の壁も、時平のソフト作戦の前に瓦解することになった。

 かくして「古今和歌集」は、仮名書きが漢字の下層に甘んじることから脱して、飛鳥・白鳳・天平という唐様優位の文化から、平安という和風文化に回帰しただけに止まらず、これを契機に「かな文字」の普及によって、紫式部や清少納言という世界でも稀有な女流文学作家を誕生させ、次第に漢字との併用・合体させるという世界に冠たるハイブリッド日本文化へと昇華させていった画期的なエポックを担うことになったのである。

 注: 平仄 平(ひょう)音と仄(そく)音を、一定の配列で組み合わせる漢詩における韻律作法。


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