12008.03


世界を席巻するJ・カルチャー  サブ・カルチャーから真のカルチャーへ ・・・ (64)

 日本のマスコミは、国内の情報に重点を置いた報道を倦むことなく続けている。しかも明るいニュースを避けて、極端に暗い事件に偏っているきらいがある。良くも悪くも、「海外の日本を見る目」についての報道は、ほとんどないのが現状で、そうしたことからいつしかネクラにされてしまった日本人は、自らをまた自らの文化を極端に低く見ることに慣らされてきた。

 冷静に伝統文化という面で見た場合、日本ほど長い歴史を有する文化は世界のどこにも存在しない。単に歴史の長さだけを見ると、お隣のチャイナなどに及ばないが、易姓革命によってそれ以前の歴史を否定し、事あるごとに「焚書坑儒」を繰り返してきたチャイナには、継続した文化や文明を持ち得なかった。今こそ日本の価値ある文化に新しい光を当てる時ではないだろうか。 

 それはしばらく置くとして、今いわゆるサブ・カルチャーと呼ばれるジャンルの中から、いつしか世界の注目を浴び、いまや真のカルチャーとして大きく羽ばたこうとしている分野があることを認識しなければならない。日本人自体が、それを日本文化だと認めるかどうかは別として、世界中で日本発文化として認知されたものが数ある事に気付かされる。

 日下公人『数年後に起きていること』によると、「フランスやイタリアで学んだ日本人と、原宿表参道で感性を磨いたフランス人・イタリア人の競争が始まる」というのだが、いまや世界中、日本人の美意識や芸術的感性を疑う者は少数派だと言えそうで、「知らぬは日本人ばかり」という風潮といえる現状にある。

 たとえば、ポップ・アーティスト村上隆だが、日本では「単なる模倣者で知らないガイジンばかりが持て囃す」と、その評価が依然として手厳しく毀誉褒貶の最中にあるが、あの世界一のブランド、ルイ・ヴィトンがデザインを依頼し、しかもそれが世界中で売れていることを無視できない。彼の評価は、評論家よりも年端もいかぬ少女が握っているのだ。

 世界中でもっとも有名ブランドが売れ、特大の店舗をつくっている国は日本を置いて他ない。今や世界に著名ブランド(メーカー)にとっても、日本人の感性を無視してはやっていけない時代になったことを知るべきであろう。そこには「モノを唯の物と見ない」、縄文以来脈々と続く「モノづくり」に対する日本人の、美意識・感性の大きさがある。

 もはや私たちは、かつての高度成長の復活を夢見たり、競争力の消長に一喜一憂する時代ではない。今こそ「日本人にしかできない 世界の新しい価値観を創造する」ことに意を注ぐときではないだろうか。

 たとえば、世界中で普及しているカラオケ・インスタント(カップ)ラーメン・スシ(寿司)をトップバッターとした和食、それにJ・カルチャーと呼ばれて注目を浴びているJ・ファッション、J・アニメ、J・ポップス(ポピュラー・ミュージック)など、私たちの目にはごく当たり前のサブ・カルチャーに過ぎないが、その実、カラオケにしろスシにしろ、いずれもそのまま世界語として通用しており、高度に普及しているのが事実である。

 特にスシの場合、ハンドメイドの和食というイメージに相反する、スシ・ロボットとコンベアーシステムというメカトロとの奇妙なハイブリッドが世界中で受けていると言えるし、カラオケではどんな歌でもワンタッチで即座に選択できて、曲に同調したテレビ画面には、状況にマッチした映像に加え、歌詞までがタイムリーに現れるというハイテク性が売り物となっている。ここには、決して他国が思いも付かなかった──世界中の若者に「クール!」と呼ばせる──ハイテクと感性を巧みにハイブリッドさせた日本の文化力が見て取れるではないか。

 特に世界中を席巻している日本のマンガ・アニメだが、たとえば野茂英男やイチローが「巨人の星」「ドカベン」を見てプロ野球選手を夢みて成功し、女子バレー選手たちが「サインはV」を見て大きく育ち、日本の選手だけでなく、フランスの名選手ジダンにまでがサッカー選手を夢みるきっかけとなったという「キャプテン翼」、最近では少年囲碁ファンを増やしたという「ヒカルの碁」…。こうなればサブ・カルチャーなどという時代ではなくなったことがはっきりしている。

 つづまるところこうしたJ・カルチャーは、決して無から有が生じたわけではなく、日本という国土が生んだ「たぐい稀な感性」に裏打ちされた文化であり、その根底に脈々と流れるのは、「縄文癒しのアニミズム」であり、「万葉の大らかさ」であり「平安の雅(みや)び」であり、「源平のものの哀れ・無常観」であり、「鎌倉の侘び・寂び」であり、「戦国の婆娑羅(ばさら)」であり、室町の「百花繚乱」であり、「安土・桃山の絢爛豪華」であり、「江戸の粋(いき)・風流」なのである。

 しかもそれらが、集約され、渾然一体化し、醸成され、しかも昇華された「多様化の美」なのである。マスコミや多くの識者は、今の日本の持つ「多様性」に目をつむって、その一面だけを切り取って悪し様に言挙げしているのだと言えるだろう。


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