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原爆とぼく − (1) 62年間の封印を解く
今年も真っ赤な夾竹桃の花が燃えさかる、ヒロシマの「原爆忌」がやってきた。原爆が広島に落ちたのは今から62年前の8月6日、ぼくがまだ14歳、旧制(県立廣島第2)中学校の2年生の時だった。
その日ぼくらは、同期生全員と広島駅裏の東練兵場にいた。そこに植えられていたサツマイモの草取り作業を行うためである。そこで原爆の洗礼を受けたのだが、ほとんど全員が同じように、(それとは知らぬ)エノラ・ゲイを見つめていたため、左頬のヤケド程度で助かったのだが、ちょうど同じ日、今の平和公園の少し川下にあった、(当時の)広島県庁周辺の建物疎開作業に従事していた1年生の全員を「原爆=ピカドン」の犠牲にしまったのだ。
当時3年生以上は、学生挺身隊として方々の軍需工場に配属されており、1年生と2年生だけが、授業と勤労奉仕を交互に行っていた。その時期我が校では、建物疎開作業と授業を1日交代で行っており、原爆の投下が1日前後にずれていたら、ぼくら2年生が全滅していたことになる。
しかももし、急な変更で東練兵場での作業でなくて学校に行っていたら…、警戒警報や空襲警報に当たっての対応などが変更されていなかったら…、いろんな(好)条件が重なった上、しかも三百数十人の尊い命と引き替えにぼくらが助ったことになる。
母方の親戚も全員死んだ。病気中の母も10月初めに死んだ。私は自分の心の中で、出来るだけ原爆に絡む、つらくて悲惨な記憶は忘れることにした。「原爆のことは語るまい」という封印をした。なにもぼくだけでなく、つらい記憶を忘れ去ろうとしている人、かたくなに口を閉ざしている人は多いはずだ。
ぼくが語らなくても、語る人は沢山いた。自分が歌わなくても、原爆詩を書き、原爆の歌を歌う人も大勢いた。悲惨な地獄図を克明に描く人さえいた。
この悲劇を後生に伝えるために、行事は年々大規模に、そして派手になっていった。かつての情緒ある城下町廣島の風情は、全市焼け落ちたことに加えて、由緒ある町名を惜しげもなく捨て去ることで、全く消え失せてしまった。
たしかに、平和で水清く緑の美しい、文字通り山紫水明のヒロシマは誕生したが、軍都廣島も学都広島も、最大の安芸門徒を擁する宗教都市廣島、そしたすべて古いものは、原爆と共に消え失せていったのである。残っているとしても、それはもう形骸に過ぎない。得たものの裏にある、失ったものへの郷愁もまた大きかった。
だからぼくも、原爆を忘れ去ってもいいのではないか。
さて広島では、「平和学習」という名で、多くの中・高生が修学旅行に来る。また地元の学校でも、「平和学習」として原爆の悲惨さを教えている。それはそれなりに決して悪いことではない。それがイデオロギーに毒されていないなら…。
そうした学習に活躍するのが「原爆語り部」といわれる皆さんである。おそらく数十回、いや数百回かもしれない。おそらく当初は、訥々とした語り口だっただろう。それが度重なれば、次第に上手になり、当時の恐怖や感慨を忘れてしまい、何時しか流暢に、思い入れたっぷりに、遠い昔の叙事詩を朗詠する、吟遊詩人に変身していったかのようである。
誰でもだが、同じ事を語るとき、度重なるほど最初の情熱が次第に薄れていき、たしかに上手に喋ったとしても、どこか自分の熱意が伝えにくくなっていることに気付くだろう。10分喋るために、30分から1時間もかけて資料を準備したり、語りのリハーサルをしたりしたものである。それが次第に、語りに手垢が付く時分になると、修辞や脚色は確かに語ることは上手になって、余裕さえ出てくると、何時しか、どこか空虚な気持ちを聴衆に与えるのではないだろうか。
いまや「語り部」の中で、本当のヒバクシャは5人しか残っていないのだという。とすればますます神話を語る、セミプロの吟遊詩人の世界になるだろう。
たった一度だけ、「語り部」のピンチヒッターとして、地元の某女子高校にかり出されたことがある。頂いた時間の半分たらずで体験談は終わってしまった。やむなく学生たちに、「どこか外国のニュース映画で、広島に原爆が落とされ、キノコ雲があがっている画面を見て、観客が拍手しているシーンを見たが、それについて皆さんはどう思うか?」と訊ねてみた。もちろん答えなど期待してはいなかった。世界には、「原爆」についても、いろんな考えがあるということを伝えたかったし、知って欲しかったのだが、その後二度とお呼びはかからなかった。当然である。
さて平成3年、同級生の中から、自分たちの「原爆手記」を書き残そうという話が持ち上がった。題名は母校の象徴「ポプラ」にちなんで『ポプラは語り継ぐ』とされた。断る理由もないので、出来るだけ記憶を絞ってリアルに書いた(つもりであった)。執筆者は110名に及んだ。同期生全員の約3/1という人数である。完成した後、多くの級友の手記を読んで驚いた。あまりに克明に当時の模様を記憶しているからだ。
(『ポプラは語り継ぐ』の概要)
http://joumon-juku.com/23/English/01.html
長い年月経てば、たしかに何事でも風化し形骸化して行くことは避けられないだろう。だったらそれを、ただ習慣的に続けていいのだろうか、というむなしさが、ぼくの口をますます固くしていった。忘れようという気持ちは、当然ながらあらゆる面で「(過去の)記憶の風化」を招いたことになる。
いささか視点を変えよう。
広島ではいま原水協と被爆協に分かれて、原爆をイデオロギーの具として弄んでいる。また最近、自分の病気(ほとんどがガンだが…)の原因は原爆症に当たるものだということを主張し、原爆特別手当の申請を巡って裁判沙汰になっている事実がある。
原爆を受けた者(特別原爆手帳保持者)には、(国民・社会保険と併せてだが)治療費が免除される恩典がある。その上ある種の病気や障害があれば、月々一定の健康手当が支給される。広島にも負けないほど大きな空襲による被害者は、全国の大きな都市に大勢いらっしゃるのに、そうした人たちには、一切恩典がないことを考えると、むしろ感謝してしかるべきではないか。
それを「訴える」という手段を講じるのは、とても許せないという気持ちになった。「もし原爆が原因なら、今まで生きているはずがない」というのが私見である。
もしこの主張が認められたとすれば、何ら恩典を受けないまま、同じ病気でなくなった人たちとの間に、大きな差別が生じるではないか。しかも感謝を忘れて、ありもしない権利だけを言い募る人たちを許せないとまで思った。もし保証や補助を言うのなら、「日本政府ではなく、原爆を落としたアメリカに言うべきではないか。
それに私は、なぜか彼らが発する「絶対平和」という理想論に、鼻持ちならない偽善を見て取った。そんなものどこにも、(それこそ絶対に)あるはずはない。
さて、心に蓋をするという行為は、なにも「原爆」に限ったことではない。いつしか、あらゆる面で「過去にこだわらない」という性状をぼくに植え付けていったらしい。好奇心をいつもカラカラに乾かせて、狂ったよう新しい知識を飲み続けていった。学術的基礎を欠くぼくの場合、当然「雑学的」であり、学際的な面に興味が飛び交い、ちょうどアメーバのように、知識と興味の領域を広げていくことになった。縄文に傾倒して『新縄文学』を標榜しながら、テーマやタイトルは、常に狂った羅針盤よろしく、四方八方を目まぐるしく指し示し始めたのである。
いつの間にか、自分ではまっとうな中庸だと思っているのに、どうも縄文塾とは、「右よりの団体」という噂がちらほら聞こえ始めた。たしかに一面右よりと思われる発言もした記憶があし、そうした記事を書く塾友もいる。だが私に言わせると、みんな純粋でイデオロギーに毒されていない。むしろ多くの人や、それを後ろで支えるマスコミが、どうも左寄りに思えるのだが…。
ところが今年(平成19年)になって、急に心境の変化によって、長年の封印を解く心境になった。それには、幾つかの理由と契機があった。
(次回につづく)