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森と人の地球史

***** 森林破壊で始まった西洋文明 *****

森林破壊で始まった西洋文明

『文明の生態史観』再考

 梅棹忠夫『文明の生態史観』は、創刊以来多少の改訂があったものの、本質的な面で幾多の疑問点が浮かび上がるのだが、氏はどうもこれを叩き台にした新理論が現れることを待ち望んでいるようなフシがある。事実その後幾つもの『文明の○○史観』が上梓された。

 ここで梅棹が「西洋発の進化史観そして唯物史観のアンチテーゼ」だという『生態史観』を、もう一度俯瞰(ふかん)してみよう。氏は系譜論でなく機能論と断った上ではあるが、植物遷移という仕組みを援用して、ユーラシア大陸を楕円形に見立て、その中央を「乾燥地帯」とし、その外側の部分、東はチャイナそしてインド、西ではメソポタミアそしてエジプトなどを、本来文明の発祥の地でありながら、遷移という作用によってその文明を東西両端に位置する日本と西ヨーロッパという第一地域=「極相(クライマックス)」に譲った第二地域だと位置付ける。

 氏が第二地域として挙げるのが、(T)中国世界、(U)インド世界、(V)ロシア世界、(W)、地中海・イスラム世界(X)である。いわば「東西文明相似論」なのだが、たとえば氏は日本について、「第二地域に属する中国世界・インド世界などの国ぐににくらべて、地理的にはおなじアジアに属しながら、内容ではいちじるしいちがいをもっている」のだと謂っている。

 また梅棹は、アジアにおける日本の特殊性というものは、第一地域としての特殊性であって、日本はむしろ「西ヨーロッパとおなじカテゴリーにはいる地域である」と謂うのだが、第一地域がどんな特殊性を持つのかについてはまったく触れていない。梅棹は古代文明が申し合わせたように乾燥地帯の真只中か、その周辺に成立していることに触れ、乾燥地帯における破壊力の主流である「遊牧民」のあらあらしい生態を次のように描写している。

 こうした乾燥地帯は悪魔の巣だ。乾燥地帯の真ん中にあらわれてくる人間の集団は、どうしてあれほどはげしい破壊力をしめすことができるのだろうか。 (中略) とにかく、むかしから、なんべんでも、ものすごくむちゃくちゃな連中が、この乾燥した地帯のなかからでてきて、文明の世界を嵐のようにふきぬけていった。 (中略)
 そうした暴力もここ(第一地域)までは及ばず、まんまと(第二地域からの)攻撃と破壊をまぬがれた恵まれた土地であり、温室であり箱入りであって、何回かの脱皮をして、今日にいたった「いわゆるオートジェニック(自成的)なサクセッション(遷移)であるのだ。


 確かに他国からの侵略を免れ、欲しい先進文明だけを享受出来た島国日本の文明は、オートジェニック・サクセッションという表現に似つかわしいといえるかもしれないが、西ヨーロッパについては、はたしてオートジェニック・サクセッションだったのだろうか。西洋の歴史をひもとけば、この地は決して温室育ちでも箱入りでもなく、「むちゃくちゃな連中」による攻撃と破壊を受けた同時に、彼らからの文明の享受にもあずかってきたのである。

 梅棹の謂う「むちゃくちゃな連中」が、ペルシャ・トルコ・アラビアなど中東の民族だとして、さらにアッチラ率いるフン族やモンゴル族など、アジアの騎馬民族からも手荒い洗礼を受けている。たとえばローマ帝国はフン族の圧力によって東西に分裂し、結局西ローマ帝国は、玉突き状態で大移動を強いられた東の蛮族ゴート族によって滅ぼされたし、ブリテン島の先住民を征服してこの地に居着いたたケルト族(古ゲルマン人)もまた、ローマ軍やアングロサクソンによって圧迫され続けてきた。

 スペインに至っては、長らくイスラム(オスマントルコ)の支配下におかれてきた経緯がある。その後も西ヨーロッパは、十字軍の相次ぐ東征から、百年戦争そして三十年戦争、続いてナポレオンの覇権拡大から第一次世界大戦、ナチズムの台頭と第二次世界大戦というふうに、文明の中心を目指す覇権と覇権のぶっかり合いによって、絶え間なき戦火に明け暮れたのである。

 その辺りを見つめれば見つめるほど、西洋文明は決して梅棹の謂うようなオートジェニック・サクセッションではなく、すでにスタートの段階において、森の神々や農耕の守護神を信じる農耕民と、土地の荒廃化・砂漠化が生んだ、嫉妬深い唯一神を信奉する遊牧民との間に生じた、血を血で洗う抗争・征服・謀反・融和・裏切り・相剋・嫉妬・不信の飽くことを知らぬ繰り返しであり、その過程で生じた森林破壊→洪水→荒地化であり、その結果としての民族と文明の移動という熾烈(ラディカル)な攪乱(サクセッション)の系譜だったのである。

 なにしろ西洋の民は、つい20世紀の半ばまで自国や近隣での争いから場所をはるか東洋にまで移して、勢力拡大のため血みどろの戦争にうつつを抜かしてきたのである。


古代文明の始まり ・・・ 叙事詩ギルガメッシュの教訓

 7万前から2万年前頃まで続いたヴュルム氷河期の時代、ヨーロッパの気候はなべて現在よりも7℃も低く、北欧は大氷河に覆われ東欧や西欧はツンドラ地帯やタイガという針葉樹の疎林に混じって、いたるところに広い草原が広がり、南欧や中東に至ってようやく針葉樹と落葉広葉樹が繁茂するという厳しい環境にあった。

 約1万8千年前から徐々に温暖化が進むにつれ、ようやくこの地は広い草原と、針葉樹と落葉広葉樹との混成林に覆われた緑豊かな地帯に変貌していった。針葉樹の疎林に草原という、マンモス・ヘラジカ・トナカイなど寒冷地に適応した大型草食動物逹にとっての楽園は次第に減少していき、ある種は絶滅、しある種は北に移動し、ある種はヒトに飼育されて家畜という道を選ぶことになった。

 文明の萌芽は、ヘンリー・ブレステッド(1865〜1935)が「肥沃の半月(三日月)弧=ファータイル・クレセント」と呼んだ、チグリス・ユーフラテスの河口からアナトリア高原南部を経て、東地中海海に面したレヴァント回廊に到る半月状の一帯で始まった。約1万年前、温暖化の進行で最適の気候になり豊かな草原と森林に覆われてきたこの地に、遊牧そして農耕という「農業革命」がほぼ同時に生まれた。

肥沃の三日月地帯
         肥沃の半月弧(The Fertile Crescent)

 約7500年前には青銅器、次いで鉄器が発明され、遊牧・農耕から離れて、まず物々交換の市を中心にして幾つもの職業が生まれ、文字が誕生し、6000年前ころ、神殿を造り城壁を巡らした都市の建設という「文明の黎明」によって、それまで動物生態系に属してきたヒトは、ようやく「人生態系」を確立することになった。

 ちなみに、この7500年前ころから気候高温期(ヒプシサーマル hypsithermal)に入ったヨーロパでは、文明発祥の時期にあたる6000年前ころには、現在より約2℃ほど高く、気温最適期(クライマテック・オプティマム climatic optimum)と呼ばれている。日本では縄文時代の最盛期、三内丸山の頃に当たり、縄文海進とよばれる海面が5〜7mも上昇した時期である。現在(いま)では当時とはまったく反対に、温暖化の進行が懸念されているのは皮肉なことである。

 その後人口の増大によって、文明はチグリス・ユーフラテス流域一帯に拡がっていくのだが、アナトリア高原の雪解け水によって両河で起きる洪水は、破壊を伴いながらも上流の肥沃な土を運び、豊かな収穫を約束した。灌漑技術が進み人口が増えるに従い、コーカサス地方からやってきたカフカス語族の定住から、セム語族の侵入それにインド・ヨーロッパ語族の登場と、この地の富を狙っての抗争が激しくなっていった。

 ジョン・パーリン『森と文明』は、この肥沃の半月弧からレバノン杉の森が無残に切り開かれ、破壊されて次々と砂漠化していった経緯から始めて、その後西洋の文明を担った狩猟→遊牧の民がどうのようにして「森」を失い、今日に至るまでいかに砂漠と廃虚を増やしていったかという歴史を淡々と描いていく。

 まず彼は、約四千七百年前のメソポタミアの都市国家ウルクの王、ギルガメッシュの活躍を謡った世界最古の叙事詩によって指し示してくれる。ギルガメッシュは立派な都市を造るために、「三つの能力を備えた斧」を持って、シュメールの神エンリルの命令で森を守る半神半獣の森の神フンババの棲む森に向かい、欝蒼(うっそう)と茂るレバノン杉の森を切り開こうとする。

 木の伐採の音で目をさましたフンババは、当然のことながら、人間が傲慢にも禁断の地へ足を踏みいれたばかりかこともあろうに木にまで手を出していることに怒り狂い、侵入者にただちに伐採活動をやめるように命じる。そして、とうとう両者のあいだにこの貴重な資源をめぐる戦いがはじまる。最終的には文明側が勝利を収め、屈強の半神半獣の森の神フンババはその頭部を失う。  (中略) 
 エンリルは未来永劫にわたって大地の豊穣性を維持していかなければならない責務をになっていた。エンリルは、森が破壊され、フンババが殺されたことを知って怒り悲しんだ。そして侵犯者にたいし自然のしっぺ返しを予告して、呪詛の言葉を投げつける。「汝らが食す食べ物は火に食われよ。汝らが飲む水は火に飲まれよ」と。


 ジョン・パーリンは、「叙事詩ギルガメッシュを書いた人たちは、文明がいったん森に侵入出来るようになれば、木は人間によって破壊し続けられていくものだということを知っていた。森林破壊の後には干魃(かんばつ)が起きることも知っていた。そしてこの物語は、その幕を閉じるにあたって南メソポタミアも、最後には森の伐採に邁進した多くのほかの文明と全く同じ運命をたどるであろうと予言する。その意味では、この叙事詩は時間を超越して来たるべき未来を指し示す物語となっている」のだと指摘している。   

 以来増加する人々を養う為の農耕と遊牧の拡大によって、また鋭利な鉄器の出現によって、飽くことなく森の木々の伐採が続けられた。住居に家具に都市造りに、生活のための燃料そして造船材に、また金属精錬や陶磁器製造にと、森の破壊はたえず続けられていった。

 こうした人の森への仕打ちに対して、森のそして自然の手酷いしっぺ返しは洪水の頻発であり、表土の流失からくる砂漠化現象であった。その後かつて「乳と蜜の流れる地」と謳われた豊穣の地が、砂漠化への道をひた走った経緯を見れば、そこには「森を伐って文明が興り、森が滅んで文明も滅んだ」という厳粛な事実があった。別の視点で見れば、「文明は興きたときからすでに滅亡が約束されていた」のだという、皮肉な事実を内蔵していたことになる。 梅棹の謂う乾燥地帯とは、決してすべてが最初からのものではなく、「森を伐る」という人の営みの結果生じた「負の歴史遺産」であったことを、われわれは肝に銘じなければならない。

注 カフカス語族 
黒海とカスピ海に挟まれた地域。北はロシア、南はイラン、トルコと国境を接する古くから東西・南北の交通路となり、多数の民族、言語が複雑に混じりあったカフカス地方に分布する系統不明の諸民族の総称。カフカス諸語を話す。同地域の住民のうち、インド=ヨーロッパ系,トルコ系を除いた、この地方の先住民をまとめたもので、系統的に同一のグループをなすのかどうかは分からない。南方グループ 東方グループ・西方グループに分かれる。コーカソイド系と呼ばれる白人種である。
注 セム語族 
アラビア語やヘブライ語を含む大語族で、北セム語・南セム語に大別される中東地方を代表する民族。ユダヤ・キリスト・イスラム三大宗教、アルファベッドやアラビヤ文字などオリエント文明を生む。旧約聖書のノアの長男セムを語源とし、彼の子孫の種族だとする伝説に由来する。
注 インド・ヨーロッパ(印欧)語族 
東はインドからヨーロッパ一帯に分布、現在の西欧の主な国の言語から、インド・イランから東欧やロシアの言語を下位区分として包含する一大語族である。


レバノン杉の悲劇

 かつては豊穣の半月弧一帯に生い茂り、耐久性に優れ害虫を寄せ付けず、建築材として特に船材として持て囃され、またエジプトの高貴な貴族のミイラを包むかぐわしい香油を生むところから香(こう)柏(はく)とも呼ばれていたレバノン杉の森は、いまでは荒涼としたレバノン高原の一角に、ほんのちょっぴり痕跡をとどめるのみで、あとは悠久の歴史の彼方に消えたしまった。

 栄華を誇ったシュメール、その後を襲ったアッカド・アッシリア・バビロンそしてヒッタイトという諸文明も、森の滅亡を道づれとしてその栄光はあまりに儚(はかな)く短かった。伐り尽くせないほどあると思われたレバノン杉の緑は決して有限ではなかった。その後も西洋文明は、この中東での貴重な経験からいささかも学ぶことなく、金の卵を生む鵞鳥の腹をむざむざと引き裂いてしまう過ちを、幾度となく繰り返すのだった。

 シナイ半島のレバノンには、商業に長けたフェニキア人がいた。彼らはレバノン杉の船を駆って、エーゲ海・地中海を縦横に走破し、通商によって巨万の富をわがものにしていったが、その代償として、文字通り「金のなる木」レバノン杉を失い続けたのである。

 1948年、西欧列強のエゴと思惑から生まれたイスラエルの建国は、棲む地を追われ2000年以上に亘って流浪を余儀なくされてきたユダヤ人にとって悲願成就の快挙であった反面、シナイ半島に大きな亀裂をもたらし、その地に棲んでいたパレスティナの民にとっては寝耳に水の悲劇であり、爾来パレスティナ人と彼らを支援するイスラムの人たち、特に神の党ヒズボラと呼ばれる過激な原理主義者の民兵組織との間で、エンドレスの復讐合戦を繰り返して今日に至っているのだが、レバノンは隣国ヨルダンやシリアの勢力下にあって、常に戦乱の火の粉の下にさらされてきた。

 安田喜憲『森と文明の物語』は、1992年イスラエルのジェット戦闘機がヒズボラの拠点を急降下攻撃している最中、レバノン山脈にほど近い、世界最大といわれるローマ時代のバールベック神殿跡に立っていた。かつては周囲を鬱蒼としたレバノン杉の森に囲まれ、その途方もない富を背景に造営された神殿跡から見るレバノン山脈のいまの姿は、すっかりハゲ山というあわれなものであった。

 それでもなんとか数か所だけは残ったというレバノン杉の林を見るために、車を走らせた安田の目にとび込んだのは、はるかに離れた場所にある氷河が削って作ったガディシャ渓谷の底にちょっぴり残された、森と呼ぶにはあまりに貧弱な、直径200mほどのレバノン杉の森の姿であった。

レバノン杉
  国旗にも描かれているレバノンの象徴、レバノン杉

 この辺りの森を破壊したのは古代人だけでなく、中世から近世にかけてキリスト教徒やイスラム教徒による山の開発であった。ガディシャ渓谷のレバノン杉は、キリスト教マロン派の開拓入植団によってあらかた伐採し尽くされたのである。この小さな森に入った安田の目に飛び込んだのは直径4m、周囲が13.5m、樹齢が6000年あるという巨木であった。


日本の漢方薬 レバノン杉を救う

 このわずかに残る歴史の証明者レバノン杉の森は、急斜面に降る豪雪に痛めつけられ、自動車の排気ガスが立ち枯れを惹き起こし、いまや生存か死滅かの岐路に立たされていた。スギと呼ばれてはいるが実際にはマツ科に属する、レバノン杉のちっぽけな森では、否応なく近親交配になって衰弱を深めていく。その上、このちっぽけな森を観光の目玉にしようとしたレバノン政府は、近くに道路を敷きペンションまで建ててレバノン杉の根を痛め付けていた。

 なんとかこのレバノン杉を救えないかと考えた安田は、レバノン杉の救済に熱心に取り組んでいる現地要人やマロン派の司教の要請を受けて、日本でマツクイムシの被害のもっとも大きい瀬戸内沿岸のマツの保護に取り組んできた、広島大学時代の同僚中根周歩教授に持ち帰ったサンプルを渡して相談した。そこで中根は、彼の指導で(虫害などで衰弱したマツを蘇生させる)活性剤を製造している広島市のイービーエス産興の社主、戎晃司を紹介するのだが、安田の熱意に打たれた戎は、活性剤だけでなく運賃や要員の派遣まで無料提供し、本人も現地に足を運んで活着具合を確認するという念の入れ様であった。

 もちろんレバノンで活性剤を手渡しておしまいという具合にはいかない。また結果を危惧する反対意見も多かった。戎はなんとかそれを説得して慎重な手当てを行いその後の指導まで済ませ、しかも1年後に結果を見に再度レバノンまで飛ぶことになった。そこで戎が目にしたのは、樹勢を取り戻しただけでなく、回復の確かな証拠として以前には見られなかった勢いのある新芽と、樹脂が幹のそこここに光っていたことであった。

 このニュースは日本の多くのマスコミの取り上げるところとなったが、筆者がこのことを知ったのは、1996年末の日経新聞の文化欄であった。そこで早速戎とコンタクトを取り、1997年2月に氏を招いて筆者の主宰する縄文塾において”漢方薬 レバノン杉を救う”と題する講演会を開いた。

 瀬戸内でも広島周辺は、マツの立ち枯れがもっともひどいことで知られている。特にゴルフ場でのマツの立ち枯れは人気に大きく作用するのだが、ヴィデオで紹介される限りではイービーエス産興の漢方活性剤は顕著な効果を示し、すぐ隣山まで迫っている立ち枯れマツを尻目に、コースにひときわ美しい緑蔭をつくっていた。

 講演の際に貰ったレバノン杉の種子が、筆者の狭い裏庭に置いた大きめの鉢に芽吹いたのだが、その強い成長を押さえきれず、鉢の底を抜いて後は自然に任せることにしている。

 さて、このことは私たちに幾つもの教訓を与えてくれる。こうした善意と苦労にもかかわらず、仮に手当をしたレバノン杉の延命には成功したとしても、またこの地におけるエンドレスの報復合戦が終焉したとしても、レバノン杉の森の復活はなお道遠いという事実であり、それでも今後世界中での緑化運動の中心的役割を担うのは、日本を措いて他はないという認識であり、この徒労にも似た行為の積み重ねこそが、世界に向かっての「日本という国柄の発信」なのだということの認識であり、世界で最も恵まれた風土にあって、緑の恩恵を享受してきた私たちの責務なのだということである。


森の破壊が文明破壊を生んだ

 金子史朗『古代文明はなぜ滅んだか』は、旱魃・飢饉という気象の激変によってはげしい砂嵐がこの地を襲ったことを次のように指摘する。

 今から約2400年前頃、メソポタミアからエジプト方面が、深刻な旱魃・飢饉に襲われた。この事実は、シリア北東部の発掘で、考古学者らによって確かめられた。発掘坑壁面に露出した遺跡を覆う堆積層は、地質学でいう風成堆積物であると判明したのである。サイクローン並みの強風が吹き荒れ、泥や砂塵を巻き上げ、植物を枯らし、住居を破壊した。この気候変動は300年ほど続いたことも明らかになった。

 当時メソポタミアの地に海の民(グティ)と呼ばれる民が難民となって侵入し、アッカド王朝を崩壊させてしまう。同じ時期、シナイ半島からも難民がこの地に移動する。そしてエジプトもイスラエルからの難民の被害に巻き込まれた。こうした難民の移動の原因となったのが環境の悪化だった。

 安田喜憲『蛇と十字架』は、この地の花粉化石を調べた結果、3400年前頃、大きな気候変動に見舞われ、北緯35度以南のイスラエルやエジプト、それにインダス流域も乾燥化の道を歩んだということを検証する。こうした気象変化を単なる自然現象とみることは簡単だが、もしこの地帯に森が温存されていたら、かくも大きな被害を招くことはなかったであろう。 

 それから1000年ほど経った2200年前頃、イスラエルの民はエジプトの地を追われ、モーゼに率いられて彼らが信じるヤハウエの神との間で交わした約束の地、シナイ半島のカナンに向かう。旧約聖書の示すところでは、遊牧の民である彼らはヤハウエの神の命ずるまま、この地に棲む──バール神という異神を信じる──農耕の民をことごとく殺戮して、この地に棲み付くことになる。

 この地一帯での現在(いま)にまでおよぶ深く呪われた確執の種子(たね)は、はるか昔にすでに蒔かれていたのである。なにしろ自らは、種子を蒔き収穫物を刈り取ることなど一切しない遊牧の民は、獲得した土地をそこに根付いていた生命を刈り取る作業に熱中することになるのだ。

 かくして文明の中心は、文明発祥の地メソポタミアからパレスティナの地を経てエーゲ海、次いでギリシャへ、ローマ時代に入って地中海へ、ドイツ・フランス・イギリスへと絶えず移動していった。そして文明移動のあとには、いつも荒れ果てた砂漠か岩山が残されたのである。

 赤道以北の温暖地帯に属するこの地域一帯は、かつてはいずれも豊かな森林地帯であった。しかしその文明を保持するために競って森の恵みを争奪し破壊を繰り返すことで、文明が栄えた国からすべての森や林が消えた今、いったいなにが残されているのか。そう、そこには人が打ち捨てた赤茶けた荒地か、やせた畑を耕して細々と生きる僻村が点在するばかりで、わずかに文明の面影は、荒廃し風化した遺跡として残るだけの不毛の地に変貌してしまったのである。

 中東に発した文明は、ヨーロッパに移動していったと述べた。ただそのすべてがその地では消え去ったのでなく、残された文明はその命脈をペルシャ帝国に託した。ペルシャは次第に強大化していき、総力を結集してヨーロッパ文明の祖ギリシャに戦いを挑むが無残にも敗退し、その後新興勢力マケドニアの、アレキサンドロス大王によって滅ぼされてしまう。

 中世に入るとオスマントルコが勢力を強め、ヴェネティアを始めキリスト教国と地中海の制海権を巡って争いを続け、一時はイベリア半島をその勢力下に置き、ポルトガル・スペインの地を占領するまで至るのだが、レパントの海戦でヴェネティア・キリスト教国連合艦隊に大敗し、その後西欧がアフリカの希望峰を回ってインド洋に達する新航海ルートを発見するに及んで、オスマントルコは急速にその勢力を弱め、世界覇権の舞台に二度と登場することはなかった。


文明の衝突はとはなにか

 多くの犠牲者を出して世界を震撼(しんかん)させた、イスラム過激派アルカイーダの仕業と見られるニューヨークでの無差別テロ911を契機に、アメリカは「テロも戦争である」という新しい定義を打ち出し、テロ根絶を誓ってまずイスラム原理主義者タリバンをターゲーットにアフガニスタンに派兵してこれを撃ち、次いで大量破壊兵器の摘発とサダム・フセイン政権の圧制を名義に、電撃的スピードでフセイン独裁のイラクを壊滅させた。

 ところが急速なイラク軍の崩壊以後、その残党ともイスラム過激派アルカイーダの仕業とも不明なまま、執拗なテロ行為によって、戦後統治に従事するアメリカ軍は、戦争での被害以上の死傷者を出し続けている。果たしてこれはイスラエルとパレスティナの間で繰り広げられている血を血で洗う報復の応酬と併せると、ユダヤ教とキリスト教、それにイスラム教という3つの宗教圏による「文明の衝突」なのだろうか。

 この3つの宗教とその文明は、いずれもユーラシアの中部から西部一帯での、同じ根っこから発しているいわば親類筋に当たる一神教同士の諍(いさか)いであり、文明の衝突と呼ぶにはいささか違和感を覚える。

 イラク戦争の最中連日テレビに写し出されていた、茫漠たる砂漠と激しい砂嵐の中を進む戦車の列は、まさに抑圧と報復という不毛の構図を象徴している。イラクこそ、かつてはチグリス・ユーフラテスの流れる(2つの河の間の土地という意味を持つ)メソポタミアであったし、アフガニスタンはガンダーラ仏教が栄えた地で、砂漠化して久しいインダス文明発祥の地パキスタンと隣接している。

 しかも今このパキスタンとお隣のインドの間では、カシミール地方の帰属権を巡って、イスラム対ヒンズー教の不毛の争いが続いている。砂漠化したエジプトも併せ、文明発祥の地の運命のはかなさを思わずにはいられない。

 緑の樹木や色とりどりの花々に囲まれながら四季の変化を楽しみ、それを当然と思い込んできたわれわれ日本人にとって、テレビに写し出される荒涼たる風土、そこに執着する人たちがいること自体衝撃的であり、奇異にさえ思える感情を抑えることが出来ない。

 地下から石油が出ようと出まいと、棲む民にとってこの地は遙か昔より故郷の地であり続けたし、これからもそうあり続けるだろう。風土が民族性を生みまた民族性が風土を変えたのだとしたら、この地は未来永劫砂漠に覆われたまま、西欧にも東洋にも属さぬ独自の宗教に根差す文化を保持し続けるのだろうか。それとも将来この地での植林が定着して緑が戻ってきたならば、1万年過去に遡って温和な民族性を回復し得るというのだろうか。

 それにしても、栄光の過去と悲惨な現在(いま)の有り様の間に横たわる、埋め尽せぬ乖離(かいり)のすさまじさはいったい何だろう。西欧の文明は、この地を見捨ててユーラシアの西に移り棲むことで完成したのだが、砂漠化したこの地にしがみつき、東西からの圧力の中でたくましく、したたかに生きてきた中東の民の去就が、案外人類の未来を握っているのかも知れない。 

 われわれは中東を単にイスラム圏と大きく括り勝ちだが、かつてギリシャを窺い、その富を掠めてきたペルシャ(今のイラン)、中世のヨーロッパに覇権を拡げてきたオスマントルコ(今のトルコ)、それに砂漠に海に通商の網を広げてきたアラビアという3つの民族に分けられる。

 またイスラム教もスンニ派とシーア派に大きく分かれ、あるいはアフリカへ、あるいはアフガン・パキスタンを経て東南アジアへと、大きな拡がりを見せる国際的宗教に成長した。こうした地域や国々では、イラン・イラク戦争に見られるように国家にしろ人民にしろ、決して一枚岩でないが、それでいて他の宗教と対峙すると、途端に強固な連帯性を発揮するのだ。

 この地に発したユダヤ・キリスト・イスラム教という、源流を同じくする3つの遊牧の民の後裔たちが、今この砂漠の地で、いずれが正統かを問うかのように、いつ止むともしれぬ「不毛の連鎖」を倦むことなく繰り返している。

 われわれ日本人はなんの疑いもなく、宗教とは「心のやすらぎを、精神の安寧を、そして平和を与えてくれるもの」だと信じ込んできた。だが到底窺うことの出来ない宗教の持つ残酷な側面を、惜しげもなくさらけ出している三大宗教の姿に接するとき、われわれの持つ平和に根差した宗教観をより強固にして行動すべきか、それともいさぎよく捨て去るべきなのだろうか。

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