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森と人の地球史

***** 移動していった西洋文明 *****

森を嫌ったキリスト教

旧約聖書の世界 ・・・ 遊牧民と農耕民の抗争

 人は農業革命という安定して食料を得る手段を獲得することで、急速にその数を増やしていくのだが、人口の増加は必然的に慢性的な食料不足を招くことになった。それに寒冷化や乾燥化が加われば当然飢饉が急増する。人は農耕の地を得るためにまた家畜の餌を得るために、森を焼き伐り開いていった。

 遊牧と農耕という異なった文化を持つ二つの種族が相接する地域では、食料確保のために農耕の民は遊牧の民のテリトリーにある草地や森を耕地にしようとするし、遊牧の民はそれを拒んで逆に森を開拓して草原にしようとする。それだけにとどまらず、食料の安定確保のために積極的に農耕の民をその支配下に置こうとする。こうして種族間の抗争が飽くことなく繰り返されることになっ.た。

 西洋発史観は、狩猟と採集とを一括りにしてきた。したがって遊牧と農耕という異なった文化を同一項で語ろうとしてきたのだが,その実中東からヨーロッパにかけて、この遊牧と農耕という相異なる二つの文明の激しい衝突が幾度となく繰り返されてきたのである。

 旧約聖書は経典であると同時に、ヘブル(ユダヤ)という遊牧の民の歴史書でもある。具体的な事例として、モーゼ率いるヘブルの民がエジプトを脱出し、カナンの地に棲んでいたバールの神を信じる異教徒の農耕の民を、神のお告げに従って虐殺し尽くしことをはじめ、旧約聖書には血塗られた歴史が数多く語られている

 旧約聖書を読めば、人は神によって創られ、土塊(つちくれ)に命をふきこまれた始原から、すでに罪深い宿命を背負っていることがわかる。なにしろ遊牧民ヘブルの神ヤハウェは唯一神であり、一方バールの神は、農耕にかかわる多くの神の上に立つ主神である。唯一神には並び立つ他の神は不要であり目障りであって、当然抹殺すべき憎っくき敵であった。安田喜憲『蛇と十字架』は、アダムとイヴの寓話こそ、唯一神ヤハウェを奉じる遊牧民と、豊饒のシンボル「蛇」を自由にコントロール出来る天候神バールを奉じる、農耕民との争いを示しているのだと謂う。

 旧約聖書のエデンの園の物語は、こうしたバール神とヤハウェ神の戦いの中で、唯一神ヤハウェに対する信仰心を強化し、純化するために書かれたものに他ならなかった。 (中略)
 天にのみ唯一神を求めるヤハウェの信仰に比べて、バール神の信仰はより蛇の霊力を敬い、多神教的な色彩を強く持っていたのである。ユダヤ教徒は、バール神と闘い、ヤハウェの唯一信仰を強固に確立するためには、多神教のシンボルである蛇を邪悪の象徴に仕立て上げなければならなかった。旧約聖書のエデンの園の物語はそれまであった多神教(農耕の神々)を攻撃する物語なのである。

 
 鈴木秀夫『森林の思考・砂漠の思考』も、多神教から主神、そして一神教に移行する経緯を。次のように述べる。

  (前略) 多神教から一神教への移行には、このように人間の論理の成長だけからもおこり得るが、実際にそれをおこさせたのは、五〇〇〇年前以降進行した乾燥化による神々の脱落であった。
 多神教の世界では、山川草木、日月旦辰、いろいろなものが神になり得る。草木が繁茂し、多数の動物が棲息する湿潤地帯では、沢山の神々が考えられていたが、乾燥が進むにつれて、森林が消滅し、草原が後退していくと、神々もまた消滅せざるを得ない。


 禁断の木の実を食べた罪で、エデンの園を追われたアダムとイヴの初めての子供が、カインとアベルである。兄カインは土を耕す者になり、弟アベルは羊を飼う者になった。カインとアベルの寓話は、カナンの地に農耕と遊牧が並んで行われていた事実から始まって、最後に農耕の民が敗れ去った経緯を示している。

 ある日カインは神に地の作物を捧げ、アベルは肥えた羊の初子(ういご)を神に捧げる。しかし神はカインの供え物を顧みられなかった。怒ったカインは野に行き、弟アベルを殺してしまう。浅野順一『旧約聖書を語る』は次のように語る。

 カインとアベルの抗争は、農耕文化=カナン文化と遊牧文化=初期のヘブル文化との争いをあらわしていると解釈できるわけであります。つまり、遊牧文化は初め農耕文化に退けられてしまったけれども、のちにアブラハムによって復活し、しまいには農耕文化をも支配するようになった。そしてずっとのちになって、エジプトに渡ったヘブル人たちは、長期間の滞在の後、モーゼに率いられて圧制を受けたエジプトを脱出し、モーゼが荒野で死んでからは後継者ヨシュアによってヨルダンの川を越え、カナンに進入してその地を占領した。そこは神が先祖たちに約束された「乳と蜜の流れる」楽土であるとされています。カナンは、先ほど述べたように農耕文化ですから、アブラハム以後の遊牧文化は農耕文化を征服した形になるわけです。 (後略)

 和辻哲郎『風土』もまた、「イスラエルの民がその宗教を確立して、種々の宗教的文芸を作りはじめたのは、このカナン土着以後であるが、これらの文化産物に現れているものは(ヤハウェの)神への絶対服従であって、他民族(とその信奉する神)に対する仮借ない戦闘において、イスラエルの民が示すのは、砂漠的人間としての顕著な性格にほかならない」と指摘している。たとえば卑近な例としてだが、キリスト教の伝道者を牧師(shepherd)と呼び、迷える小羊を導く羊飼いになぞらえて呼ぶことなども、遊牧の民の優位を示すものといえるだろう。

 カナンと呼ばれるパレスティナ地方は、この時期まだ豊かな森と肥沃な大地を持ち、農耕にも最適の地であったため、カナンの地に入植したヘブライ人は、いつしか農耕を営むことになる。農耕をすることは天候神バールを信じ、そのことは当然唯一の神ヤハウェへの信仰を捨てたことになる。神との誓いが破られたことで世は乱れに乱れ、道を外れた行為が増えた時、神の怒りの大洪水が起きてヘブル人に破滅をもたらされたというのが「ノアの方舟」の寓話である。

 実はこのような洪水伝説は世界の各地に見られるのだが、これは農業革命の結果、各地で森を伐り払うことが生んだ人災だったと見るのが妥当である。チクリス・ユーフラテスにしろナイルにしろ、通常の洪水はむしろ肥沃な土砂を提供するところから、人はうまくそれを利用した氾濫型農耕を行ってきたのだが、森の乱伐によって起きた洪水は、予想を超える災害をもたらしたところから、洪水伝説が生れたのであろう。

 「ノアの方舟」の由来は、そうした森の乱伐を行った農耕の民に対する、遊牧民の神の怒りが生んだものだったと見ることが出来る。実際には遊牧の民も森の破壊に荷担したはずだが、結局はすべて農耕の民がスケープゴート(身代わりのヤギ=犠牲者)とされたのであろう。ノアの子供セムはヘブル人(ユダヤ人)=セム語族、ハムはカナン人あるいはエジプト人=ハム語族、ヤベデはギリシャ人を意味しているのだが、このように読み解いてくると、旧約聖書は遊牧の民ヘブル人と、周囲の農耕を営む諸民族との相剋と葛藤を示す古文書だということが出来る。

 その後またしばらくすると世は乱れ、天にとどくという神を恐れぬ「バベルの塔」が造られる。ここでまたしても天罰が下って塔は崩れ落ち、人々は散り散りになってしまい、以来われわれは、お互いに意思の通じぬ別々の言葉を喋るようになったという由来である。

 ことほどさように西洋文明の民の祖は、時を経てもアダムとイヴに始まった原罪から決して逃れられない運命に支配されることになる。かくして神の懲罰によって、南ユダ王国に続いて北イスラエル王国が滅亡する。ヘブル人には、そうした罪を償うための長くてきびしい流浪の旅=離散(ディアスポラ)が科せられるのだ。

 旧約聖書の記述には,牧畜の民によって農耕の民が征服されたという、「歴史上の真実」が数多く示されている。農耕の民は最高の恵みをもたらす主神をはじめとして、豊かな収穫を約束する幾つもの要素、すなわち「神々」を持つ多神教であった。そうした神々を滅ぼした嫉妬深く峻烈な唯一神にとって、「多数神の中の一神」という立場は絶対に容認出来るものではなかった。

 だからこそヤハウェの神は、異教徒をそして異教徒の信じる神々をすべて葬り去ったのである。森を依り代とした豊穣の神々が死に絶えたとき、その地にはなにも育たぬ茫漠たる砂漠が、そして荒れ地が拡がっていたのである。


「原罪」そして「契約」を考える

 農業革命には遊牧と農耕があるが、文化(カルチャー=Culture)が「耕す」にあるとはいうものの、キリスト教ではしばしば遊牧を象徴する「羊飼いと羊」という比喩を使う反面、額に汗し掌にマメを作って土地を耕す「農耕」という労働は、人が背負って生きねばならない贖罪(しょくざい)なのだという、「原罪意識」をその根底に置いてきた。

 神に似せられてつくられたアダムとイヴが、エデンの園でヘビにそそのかされて禁断の木の実を食べたという、人が最初に神との契約を破った罪「原罪(the Original Sin)」に対するヤハウェの報復は、ふたりをエデンの園から追放することkから始まった。そしてアダムとイヴの子のうち(農耕に携わった)カインが、羊飼いの弟アベルを殺してヤハウェの神に追放され、その後契約違反を繰り返した人への報復として大洪水によるノアの一族と各種の動物一番い(ひとつがい)を除くすべての生き物の絶滅があった。しかもその後もバベルの塔崩壊に象徴されるように、人の契約違反に対する天罰は執拗に続いていった。

 こうした原罪意識は、ユダヤ教徒・キリスト教徒の潜在意識にしっかりと定着して今日に到るまで脈々と流れている。西洋文明を語るとき、この「人の誕生という始原においてすでに罪があった」という原罪意識を抜きには、けっして論ずることは出来ない。しかもそこには、厳然として遊牧民こそ農耕民より上位にあるのだという思想が存在していることがわかる。創世記のアダムとイヴに始まる一連の寓話は、「原罪」というほどに重い枷をユダヤ・キリスト教徒に背負わせ、とくに農耕民は(ある意味で)罪人として蔑んでよい対象に貶められてきたのである。

 ともあれ神に似せてといいながら、もともと土で作られた不完全な人はたちまち最初の罪=原罪を犯した。それは人が神との間で交わした契約(Testamentum )を破ったことである。この意味するものは、人の本性が生まれつき悪であるという性悪説であって、そのためにキリスト教社会では、神と人はもちろん結婚・取引…、すべてが「初めに契約ありき」という社会通念、すなわち生きていくためには、あらゆる交渉事を、契約という規範で守らなければならないという思想が根本原理である。

 旧約聖書(Vetus Testamentum )とは最初に取り結んだ『神と人との契約』という意味であり、新約聖書(Novum Testamentum )とは、人が始めに神と結んだ契約を不履行したために、キリストがあらためて契約を結び直したという意味なのである。

 このように当初より不完全だった人は、必然的に「契約は守るが契約にないものはもちろん守る必要がない」という思想を正当化することになった。だからこそ『モーゼの十戒』でわかるように、われわれ日本人にとっては、あらためて口にする必要のない程度の社会的最低倫理規範を、ことさらに神の言葉として「〜するなかれ!」と強調する必要があったのだ。

 すなわち日本人にとって、ほとんど無縁といえるこうした「契約」という社会規範こそ、厳しい自然の中で、常に競合種族との緊張に満ちた環境にあった狩猟→遊牧の民にとって、生存上唯一頼りになる社会的・倫理的黄金律だったのである。ここには契約という概念すら持ち合わさなかったわれわれ日本人と西欧の民との間に横たわる、どうしても越えられない溝があるのだ。いまだに我々日本人は、西欧の民の原罪意識から生じた、労働に対する極端な価値観の違いや、休日すなわち安息日という規範の重さ、それに契約の持つ意味の大きさをいささかも実感出来ないでいる。

 数百年に及ぶ熱心な布教活動がありながら、現在日本におけるクリスチャンの数は0.5%に満たぬという。キリスト教がかくも日本に根付かなかった理由には、その根っこの部分に横たわる、狩猟→遊牧の民の文化(一神教)と、採集→農耕の民の持つ文化(多神教)との間の、目の眩む乖離(かいり)があったからである。すなわち多くの異神・蛮神を柔軟に採り入れてきた、おおらかで穏やかな宗教観をもつ日本人にとって、あいまいさを拒絶し他の神を絶対に認めぬ峻厳なキリスト教は、おおいなる戸惑いであり、拒否反応であり違和感であり続けたのである。


ヨーロッパにおける森林破壊の検証

 エーゲ海・地中海周辺に比べてドイツやフランスなどは、ローマによってその多くを失ったものの、それでもまだ中世までは豊かな落葉広葉樹の森が残されていた。かつてドイツやイングランドを覆っていたのはオーク(しばしばカシ(樫)と訳されているが、西洋ブナ・ナラなどの落葉樹)であった。西欧の国々は日本の北海道とほぼ同緯度に当たる。暖流の影響があったとしても、なべて冬には過酷な寒さが襲い、夏は短くしかも土地は痩せている。地力を消耗させるコムギの栽培は数年に一度は休耕の必要があった。

 そうした土地の森は、成長が遅いため緻密な材質を持つ反面、一度伐採するとその再生に長い時間を要する。しかも陰樹である西洋ブナ・ナラの植林は困難を極める。 加えてキリスト教には、森の木の伐採を奨励こそすれ、植林しようという意識など毫(いささか)もなかった。

 紀元一〇〇〇年ころ、これから本格的な農業社会が成立しようとするときのヨーロッパを、もし飛行機のうえからながめたとすれば、その景観は今日とは大きくかわっていた。すなわち、果てしなくひろがるのは、田園や牧場でなくて森林であり、その大海原すなわち文字どおりの樹海のなかで、細長い丸太が大河の流域その他にばらばらと浮かんでみえるのが、空地であった。


と木村尚三郎『西欧文明の原像』は、中世の原風景を空想俯観描写する。人々を威圧して生い茂るブナの木は、古代ギリシャのゼウス神、ローマのジュピター神の神木であり、古代ケルト人のドルイド教の聖木であり、ゲルマンの民ゴート人の神の依り代でもあった。続けて木村尚三郎はと謂う。

 ヨーロッパは、森の王国であった。十一世紀から十三世紀の爆発的人口増大の時代に大開墾が展開され、あらたに畑や集落が生まれたが、十三世紀の後半ないし末ころからは開墾運動もストップし、また森林が勢いをもりかえした。(中略)
 ヨーロッパは、十六、十七世紀まで、森の王国であった。森林は人びとにとって、恐怖であり神秘であり、そして恵みであり、魂の故郷であった。
 (中略)もしも明るい平野、切り開かれた畑、農村、そして都市を昼の世界だとすれば、森は巨大な夜の世界であった。もし昼の世界を人為的合理の正世界だったとすれば、森は自然的神秘と非合理に満ちた負の世界であった。そしてもし正世界を体制的世界だとすれば、森は反体制の世界であり、昼の世界に敗れたもろもろの想念がひそかに生きつづける場であった。


 日本においては、記紀以後も神または動物(の化身)と人との婚姻の神話や民話が連綿と伝えられているように、まだ森の豊かな時代のヨーロッパにおいても、同じような物語には事欠かなかった。そうした森を、そして森に棲む神々やケモノたちを、邪教・異端として執念深く排斥してきたのがキリスト教であり、しかもそれに加担するように、次第に増えてきた人々を養うための開墾が進められていった。その上、彼らの放牧するヤギ・ヒツジもまた、森の破壊に一役かっていった。

 ブナやナラの落ち葉が厚く堆積し、腐葉土が格好の養分となっている森は、加速度的に開墾されていき、次々にとその姿を消していった。次第に増加する人口に比例して、森の破壊はますます深刻になっていくのである。


森を忌み嫌ったキリスト教・・・1

 「キリスト教がヨーロッパに拡がっていくことに荷担したのはマラリアであった」と、安田喜憲『森を守る文明 支配する文明』は指摘する。紀元50年ころ、トルコとシリアの国境に近いアンティオキアの司祭であった聖パウロたちは、この地に君臨する(蛇をシンボルとする)医学の神、アスクレピオスを信仰する人たちを改宗させることに躍起になっていた。当時はまだ港町として栄えていたプレニエやエフェソスは、上流の森林の破壊が進み、大量の土砂が大メンデレス川によって下流に運ばれることで海岸線が沖合に遠のき、ローマ時代には海岸線を埋めた土砂で生じた湿原にマラリヤ蚊が大発生した。

 病人を看護することを宗教的義務だとするキリスト教にとって、マラリアの流行は大きなチャンスだった。マラリアに罹って免疫性を持つ司祭たちの奉仕が急速にキリスト教の拡大に貢献する。こうして紀元292年には、ついに正式にローマの国教に定められたのである。

 ローマ時代カエサル・シリウスが遠征したガリア地方(ケルト族の居住する今のフランスからドイツに至る一帯)は、行けども尽きぬオークの生い茂る森林に覆われていた。この森を守るのはドルイド教の僧侶だったが、彼らはしばしばオークの森を守るためには、人身御供(ひとみごくう)さえいとわなかった。ところが12世紀に、この地で行われた奇妙な動物裁判は、アニミズム信仰のドルイドに代わって新しく登場したキリスト教が、逆に人が自然や動物の上位に位置するという新しい秩序を持ち込んだ、どこか滑稽で物悲しいストーリーである。

 渡部昇一『かくて歴史は始まる』は、それまでゲルマン民族にとって聖なる場所であった森が、キリスト教布教以前の「未開の地」の象徴に貶められていったのだとして、動物行動学の創始者コンラッド・ローレンツ(1903〜1989)の「刷込み(インプリンティング)理論」を援用して、キリスト教と森との関係を鋭く指摘する。

 これをもっともドラスティックに行ったのは、イングランド生まれのボニファテイウス(680〜754 )で、ガイスマールにおいて神聖なる樫の木を伐り倒して、ヘッセン(ドイツ中部)地方全域のゲルマン人をただちに改宗させてしまった。 (中略) まさにこのために、ヨーロッパにおいては一般的に、森の中の教会という概念は存在しない。教会のあるところは、全部森を伐りはらった広場であり、森は駆逐されるべきものであって、森の中で祈るという気持ちはなくなってしまったわけである
 このような「刷込み」を持ってしまった民族にとって、森の木々を伐り倒すことは喜びになっても、それを守ろうという気持ちがなかなか起きなかったのは当たり前のことであろう。 (中略) 地球環境の破壊が深刻な問題である今後の世界においては、ヨーロッパ文明が持ち合わせていない「森と共存する、あるいは森を神聖なものとして大切にする文明」のほうが、はるかに重要になってくるはずである

 17世紀は寒冷期であった。そしてふたたびペストがヨーロッパを襲うのだが、あの恐ろしい魔女裁判が行われたのもこの時である。キリスト教がその支配を拡大していった中でも、古い信仰はなかなか根絶出来ず、隠然とあるいはなかばキリスト教と混淆して生き残っていった経緯がある。たとえば偶像禁止をいうなかで、なぜかマリア信仰が根強くしかも熱狂的に存在するのも、その地で生き続ける古い地母神信仰が、聖母マリア信仰に混淆し変身していったからである。

 もともと遊牧民の父権主義の継承者であるキリスト教にとって、森や作物の豊穣の象徴である地母神は憎っくき存在であった。魔女裁判はペストというパニックのさなかで生じた、荒唐無稽なデマに発する地母神信仰弾圧の、いまわしくも痛ましい、血塗られた歴史の1ページだったのである。


森を忌み嫌ったキリスト教・・・2

 遊牧という行為は人一人を養うために、農耕に比べてはるかに広大な土地を必要とする。また農耕にしても、寒冷少雨のヨーロッパの主要農作物であるオオムギ・コムギなどの穀物は、(温暖で多雨地帯のコメに比べて)蒔いた種の量当たり面積当たりの収穫がはるかに低く、しかも地力の収奪がはげしい。したがってヨーロッパでは生きていくためには、より広く森を、そして草地を開墾していかねばならなかった。

 中世は12世紀に至り、西・東欧の湿った重い泥炭質の土地を深く耕すために、数頭のウシかウマに牽かす重輪犂(すき)が生まれ、やがて「三圃農法」という、冬から春にかけてコムギ・ライムギの収穫、春から夏にかけてはオオムギ・エンバク(燕麥)・エンドウ(豌豆)などの収穫、夏から秋は休耕して家畜を放牧することで、土地の休息と糞の供給による地力の回復をはかる農法が編み出された。

 秋にはブタは近くの森に放たれ、ドングリを食べて太る。そうした家畜は冬場エサの不足する時期には屠殺され塩蔵された。この塩辛くてまずく、しかも臭い肉をおいしく食べるための「魔法の食品」として、コショウ(胡椒)をはじめとする香辛料がなによりも珍重され、西洋の国々をして海洋国家の道へと駆り立てる一因にもなったのである。なにしろコショウに対する渇望は、いつしかペストの特効薬にまで祭り上げられるほどであった。

 この重輪犂の発明と三圃農法という新農法の普及は、結果として森の破壊に大きく貢献するのだが、加えて修道士の活動が預かって力があった。彼らが伐り開いた森の跡には修道院が建てられ、その領土としての耕地が拡がり、次第に人が集まって町が作られていった。

 かつてのドイツの深い森は、ブナ(撫)やナラ(楢)という落葉広葉樹林であった。グリム童話は、日本と違って尾根や沢のない、いったん迷うと出てこられない恐ろしい平野林を舞台に繰り広げられる。こうした欝蒼と茂るドイツの森には当然森の守護神がいた。キリスト教の伝道者は、そうした異神に惑わされぬよう、伐採しても祟りがないことを証明するために、必要以上に森を破壊していった。

 アルプス以北の豊かな森は、こうして次第に伐り開かれ失われていった。すなわちオークは、森の遷移の極相なのだが、陰樹である極相林の破壊は簡単には復活出来ない。結局ドイツでの植林は今のシュバルツバルトの黒い森に見られる、陽樹であるトウヒ(唐檜)やモミ(樅)といった常緑の針葉樹でなされることになった。日本のマツに見られるように、針葉樹は排気ガスによる大気汚染や酸性雨に弱い。ドイツの誇る針葉樹の森も例外ではない。

 キリスト教による破壊は、森だけにとどまらずそこに棲む動物にまで及んだ。安田喜憲『環境と文明の世界史』は、7世紀に地中海世界で大流行したペストがアルプス以北に及ばなかったのは、そこがまだ森の国であって、ペストを媒介するネズミを食べる猛禽類のフクロウ(梟)やオオカミ(狼)がいたからだとした上で、

 一二世紀は大開墾時代になり、森をどんどん破壊していきました。森がなくなり畑地が拡大していく。畑地というのはペストを媒介するクマネズミにとってはものすごく適応しやすい状況にあって、クマネズミが爆発的に拡大する。それにもかかわらず、クマネズミを食べる天敵のフクロウやオオカミを、キリスト教世界では最も恐ろしい悪魔として位置付けていたために、彼らは大量に殺されてしまうわけです。オオカミの食糧の80%はネズミです。(中略)
 ですから、僕はペストは森を破壊し、森の動物たちを殺したことに対する報いだというふうに思っています。


 続けて安田は、家畜由来の伝染病によって免疫性のない森の民がいかに大きな被害を被ったかについて触れて、「家畜の民のもっている恐ろしい属性を考えると、免疫力のない森の民は圧倒的に不利だから、人類史において、動物性タンパクを食べて体力的にも強い家畜の民が、森の民を征服するのは必然なことだ」と語っている。たとえば、インカの民がごくわずかのスペイン人と接触したことで、絶滅に瀕する打撃を受けたことを考えると、この言葉の示す意味は非常に重い。


俗化し特権化していったキリスト教

 その後キリスト教は次第に俗化し特権化していく。その結果教会は、その富の象徴として森の所有を拡大していくことになった。ジャック・ウェストビー『森と人間の歴史』は、全ヨーロッパを通じて中世の最大の資産所有者は教会で、森林を必要とする農民に構うことなく、林地を伐り開いて農地に変えて富と力を蓄えていったことや、最大の地主である教会が、その土地の権利が侵されるとみるや、野蛮なほどの厳罰でのぞんだ事実を、史実を元に詳しく述べている。

 現在(いま)の常識や感覚では理解しがたいことだが、当時はそんな非条理が堂々と罷り通っていたのだ。阿部謹也『物語 ドイツの歴史』もまた、キリスト教がドイツの人たちに与えた影響について、「人間関係を合理化しようとするキリスト教会の努力は一面では成功し、近代的個人を生み出す第一歩になったが、他方で、伝統的な生活様式の中で生きてきた人部との間に大きな亀裂をもたらした」として、

 古ゲルマンの時代からドイツの地に住んでいた人々は樹木や泉、山や川にはそれぞれの霊があると考え、一種のアニミズム的な信仰をもっていた。したがって彼らは森に入って木を伐るときも、川で魚を捕るときでも、それぞれの儀礼を営んでいた。それは神々や諸霊の世界と互酬の関係を結ぶという伝統と信仰に基づくものであった。それらの霊に供物を捧げ、守ってもらうためである。 (中略) (そうした贈与・互酬の関係自体)呪術的な関係であり、キリスト教の普及とともに解体されてゆくが、カトリック教会の中にも贖罪とかたちで入り込み、最終的に解体されるには宗教改革をまたねばならなかった。

と述べている。こうしたドイツでのアニミズム的な信仰は、日本の森に発した原始的宗教観と非常に似通っている。もし日本に早くからキリスト教が伝来して、強力に布教を行ってきたならば、ドイツでのケースと同じような結果を招いかもしれない。阿部はキリスト教がそうした原始的宗教観を破壊していった結果、かつて呪術的な力を持っていた人たちを始め、尊敬に値するとされた職業まで、キリスト教による一元的宇宙観によって卑しい位置=賤民とされて名誉を失っていくことになったのだと指摘する。日本においては、明治という西欧化を急ぐ時代、彼らの指導で日本オオカミが、ストリキニーネという毒薬によって、時ならずして絶滅させられたことを思い出すべきだろう。

 文明の黎明に合わせて受難の一歩を踏み出したヨーロッパの森は、その後もキリスト教の普及に歩調を合わせて、限りなくその地位と面積を失い続けていく。寒冷でしかも泥炭質のヨーロッパにおいて、(陰樹である)ブナ極相林の破壊は──もしその気があったとしても──当時の植林技術では再生を困難なものにした。かくしてこの地の植生は、ますます貧弱なものに成り下がっていくことになった。

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