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森と人の地球史

新大陸エレジー

野生の殺戮−2 ・・・ そして草食獣は絶滅した!?

 引き続いて、ここでも「野生の殺戮」を見てみよう。
 新大陸と呼ばれる南北アメリカにヒトが初めて足を踏み入れたのは、最後のヴュルム氷河期の特に寒冷期だった3万年頃だとも、あるいはその終焉に近付いた1万5000年前頃だともといわれている。

 いつのころかモンゴルあるいはシベリアの一角で、「新モンゴロイド」と呼ばれる、短い手足を持ち、脂肪を全身に分布させた凹凸のない胴長の身体に低い鼻、目頭を覆う蒙古襞を有した一重の細い目、乾いた耳垢・薄い髭…という、寒さに適応した身体条件を持つヒトたちが誕生した。

 彼らは次第に勢力を伸ばし、先住の古モンゴロイドをこの地から駆逐して勢力を拡大していった。追われた人たちの一部はチャイナ大陸を陸路南に逃れ、一部は氷結したあるいは水位が下がって陸続きになった日本の地にも来たし、一部は氷結し海面の低下したベーリング陸峡を通って新大陸に渡っていった。おそらく新モンゴロイドの一部もこの地に達したことだろう。

 西洋の古人類学者によれば、新大陸に到達したモンゴロイドたちは、その後わずか1000年あまりの間に、はるか南米チリの最南端にまで達したというのだが、このモンゴロイド=黄色人種というネイティヴ・アメリカンの先祖たちによるネガティヴな置き土産と指摘されるのが、新大陸に生息していたケナガマンモス・アメリカマストドン・ジャイントパイソンなどの大型草食動物、それに彼らの天敵であるスミロドン(剣歯虎=サーベルターガー)・ショートフェイス・ベアという恐ろしい猛獣、とくにまるで警戒心を持たなかった飛べない大型の鳥やオオナマケモノ・オオアルマジロなどの鈍重なケモノたちの大虐殺である。

 なにしろいまこの地では、わずかに北米のエルク=ヘラジカとバッファロー、南米のラクダ科のラマ・アルパカを残して、すべての大型草食動物が絶滅している。この大殺戮にあずかって力を発揮したのが、狩りの新兵器「アテトラル」という投槍器だというのだが、そのあたりをもう少し詳しく検証してみる必要がありそうだ。

 デイヴィッド・ラウプ『大絶滅』が謂うには、過去地球上に現れた動植物500億種に対して現存しているのはわずか400万種ほどだから、実に99.9%は絶滅してしまったことになるのだが、こうしたマクロの視野に立ったならば、(といってその悪行?を擁護するつもりはないのだが)ヒトの手に掛かって絶滅した種など数は取るにたらない数字かもしれない。だが五大陸における過去10万年間の大型動物の絶滅率は、オーストラリアの80%弱に次いでアメリカ大陸の73%あまりという多さとなれば、これは看過出来る数字ではない。

 もっともカンブリア期からオルドビス期にかけての珍奇な動物の大発生と大絶滅の例を挙げるまでもなく、たとえば前述アダムの子孫がユーラシアに渡った当時、天敵がいないため警戒心を持たず、鈍重でしかも繁殖率の低い種がいくらもいたはずである。特にオセアニア地域にやってきたヒトたちの前には、、ちょっとした圧力で容易に絶滅しかねない、動きがのろまで無害で無警戒で、しかもたっぷり肉汁の詰まったのんびり動物が多くいたはずである。確かにかれらの絶滅にヒトがかかわったことは否定しないが、それまで生き残れたこと自体、むしろ幸運だったと言えなくもないし、それをすべてヒトの罪にすることも酷であろう。

 またそんなに過去に遡らなくても、ニューギニアにマウイ族がやって来た途端、おそらくそれまで生態系の頂点にいたはずの、巨大な飛べない鳥ジャイアント・モアは絶滅してしまうのだ。また多少は形こそ違え、いま懸命に保護を行いながら、絶滅危惧種に指定されている希少種は後を絶たない有様である。

 その一方で、先住民の殺戮を指摘しながら、その実西洋からの移住者によって、絶滅したりその一歩手前まで追い込まれた種も少なくない。


大絶滅の真相は?

 ではわれわれは同じ有色民族である「ネイティヴ・アメリカンの先祖たちが、本当に大型動物たちを根こそぎ絶滅させてきた」のかという説を、すんなり丸ごと信じてもいいのかという疑問が残る。不思議なことに、現在世界の穀倉地帯である北米のネイティヴ・アメリカンたちは、欧米人と接触するまでまったく農耕文明を持つことなく、この地に来た時からずっと狩猟を中心とした生活を送ってきた。

 彼らの先祖が本当に獲物を大絶滅させたのだとしたら、早くから狩猟をあきらめねばならなかったはずだ。しかもこの地には、馴馳しやすい種などいなかったこともあって、遊牧へ移行することは不可能だから、森に移動して採集生活に移行するか、はやばやと農耕民に転じていたのではないか。ご存じのように彼らは依然として狩猟中心の生活を送っていた。ということは、この「大虐殺説」の裏になにか隠されているのではないか。

 17世紀に北アメリカ中部の大草原にヨーロッパ人が始めて足を入れた時には、6000万頭といわれるバッファローがいた。この無限と思われたバッファローは、ヨーロッパ人の無差別殺戮によって1890年代には、絶滅寸前まで追い込まれることでようやく殺戮が終焉したのではなかったか。その後彼らはオオカミを絶滅させ、美しいピューマも絶滅一歩手前まで追い込んでいった。

 17世紀の前半には、北アメリカの広大な森林地帯でシイ・トチ・ブナなどの実をエサにしていたリョコウバトは空を暗くするほど生息していた。それが西欧人による「一発の散弾やカスミアミで、数10羽は捕れる」という効率的な投資によって無造作に捕り尽くされ、1900年には最後の1羽マーサがオハイオ州で静かに息を引き取ったのである。実は北米のバッファローにしろ、リョコウバトにしろ、またオオカミにしろ、おびただしい数を保っていた動物を絶滅に追い込んだのは先住民のモンゴロイドではなく、大航海時代以降この地にやってきたコーカソイド(白人種)だったのである。

 映画でお馴染みのネイティヴ・アメリカン(インディアン)の乗っている馬も、ヨーロッパからの輸入されたのが野生化したものの再馴馳であって、それまで彼らは自分の足で獲物を追っていたのだ。しかもその後彼らが、馬に加え鉄砲という殺戮の具を狩猟用具として使用してさえ、バッファローを絶滅には追い込むことは出来なかったではないか。そうした彼らの先祖が、そのむかし本当に命の危険を冒してまでマンモスを狩ったのだろうか。案外西洋発のこうした新大陸における大虐殺説の裏には、アッチラ(フン族)・ジンギスカーン(モンゴル族)というモンゴロイドに対する恐怖心からきた「黄禍論」の影響がいささかでも影を落としてはいないのだろうか。

 「ネイチャー」のホームページに、『大型動物を殺したのは誰?(Who killed wooly? )』という興味深い論争の抄訳が掲載された(6.18.HP.2001)。絶滅の理由として挙げられたのは、1つはヒトが狩り尽くしたというもの、2つ目は(ヒトかイヌが持ち込んだ)病原菌によるもの、そして3つ目は気候変動によるもの、そしてその3つが組合わさったものという説である。

 その中で注目を引いたのは、ニューヨーク市アメリカ自然史博物館の哺乳類絶滅に関する専門家ロス・マクフィーの言葉である。「たしかに人類はマンモスとかマストドンという動物を殺して食べていたが、そういうことは非常に注意深く行っていたに違いない」として、「もし先のとがった棒だけでマンモスに向かっていけば、数分もしないうちにペチャンコにされるのがいいところだろう」。

 屈強な男性の犠牲がその集団の存続を危うくするような、当時ごく小さなバンド(氏族集団)社会において、かれらがそんな命の危険にあえてチャレンジしただろうか。現代の男性たとえば貴方だったら、棒の先には鋭い石器の槍先がついていたとしても、マンモスやマストドンに向かって氏族絶滅の危険をおかしてまで、命懸けで立ち向かっていくだろうか。もしそんな危険をおかすことは真っ平だというのなら、当時のヒトだってもちろん避けていたに違いない。

 彼らがマンモスやマストドンを狩っていたのだとすれば、多分それは病気か怪我それとも老衰で死にかかっているか、迷った子供の場合であったと見るのが妥当であろう。西洋の学者の挙げる虐殺の証拠は、いわゆる「状況証拠」であって、かならずしも真犯人だと断定するわけにはいかない。崖から追い落として大量虐殺したという説にしろ,偶然による暴走だったかもしれないではないか。大きな獲物をわざわざ取りにくい谷底に落とすことは常識の範囲外と考えるべきではないか。

 ただヒトが意図しなくても、気候がヒトに味方したとすればその限りではない。おそらく新大陸でも温暖化のもたらした森林の発達と深い雪によって、多くの大型の草食動物は、森に角を引っ掛け、雪に足を取られるというダメージを受け、それに助けられたヒトによる殺戮や、病原菌が重なって滅んでいき、その捕食動物たちもそれに歩調を合わせて滅んでいったのではないか。また温暖化によって、砂漠化が進行した場所もあっただろう。

 また奇妙に思えることだが、種の絶滅にはなにも大虐殺は必要ではなく、その種の出産数よりほんの少しでも多く狩るだけで、数世代後にかれらは確実に滅んでしまうことになる。そうなるとあの恐ろしいサーベルターガーやショートファイス・ベアでさえも、ヒトがなんら手を加えなくても、エサを失ってしまえば、いやでもその後を追うことになってしてしまう。

付記
 ごく最近のアメリカ考古学者の研究( 進化・古生物学:昔の記事 書庫館) の<過去の環境変動 過去の絶滅:人類移住前後の大型動物絶滅>によると、マンモスの骨化石を精査した結果、かつて唱えられていた「マンモス絶滅に、当時のクローヴィス人と呼ぶ約11000年前の人類が絶滅させたという根拠は少ない」ということがわかってきたという。理由として(マンモスの死体=骨には)彼らの武器による傷はほとんど見あたらないかわりに、病変による異常が多いからだということだ。すなわち、犯人は気候変動(あるいは未知の病気であって、クローヴィス人は推定無罪だという。

 当時の彼らの食料は、魚類から中小型の動物であって、彼らがあえて危険なマンモス狩りをやる必要がなかったというのも大きな根拠で、その代わり彼らが伴ったイヌの病気が種を超えて感染した可能性もあると予想している。


レッドマンからホワイトマンへの手紙

 「野生の殺戮」について別の視点で見てみよう。1854年(おそらくクローヴィス人の子孫である)レッドマン(ネイティヴ・アメリカン)の土地が買収され、居住区への移動を言い渡されたレッドマンの酋長シアトルから、時のホワイトマンの大酋長ピアス大統領に当てた『シアトルの手紙』がある。

  「ワシントンの大酋長へ。そして、未来に生きる、すべての兄弟たちへ。

    どうしたら、空が買えるというのだろう?そして大地を。
    私には、わからない。風の匂いや、水のきらめきを。
    あなたは一体、どうやって買おうというのだろう?
    あらゆるものが、つながっている。
    私たちが、この命の織物を織ったのではない。
    私たちは、そのなかの一本の糸にすぎないのだ。
    すべて、この地上にあるものは、私たちにとって、神聖なもの。
    松の葉の一本一本、岸辺の砂の一粒一粒、深い森を満たす霧や
    草原になびく草の葉、葉かげで羽音をたてる虫の一匹一匹にいたるまで、
    すべては、私たちの遠い記憶のなかで、神聖に輝くもの。
    私の体に、血が巡るように、木々のなかを樹液が流れている。
    私はこの大地の一部であり、大地は私自身なのだ。
    川を流れる、まぶしい水ではない。
    それは、祖父のそのまた祖父たちの血。
    小川のせせらぎは、祖母のそのまた祖母たちの声。
    湖の水面にゆれるほのかな影は、私たちの遠い思いを語る。
    川は、私たちの兄弟。
    渇きを癒し、カヌーを運び、子供たちに、惜しげもなく食べ物を与える。
    だから、白い人よ。
    どうか、あなたたちの兄弟にするように、川に優しくしてほしい。
    生まれたばかりの赤ん坊が、母親の胸の鼓動を慕うように、
    私たちはこの大地を慕っている。
    もし、私たちがどうしても、ここを立ち去らなければならないのだとしたら、
    どうか、白い人よ。
    私たちが大切にしたように、この大地を大切にしてほしい。
    美しい大地の思い出を、受け取ったままの姿で、
    心に刻みつけておいてほしい。
    そして、あなたの子供の、そのまた子供たちのために、
    この大地を守りつづけ、私たちが愛したように、愛してほしい。
    いつまでも、どうかいつまでも」


 レッドマンもホワイトマンのいずれも狩猟の民である。レッドマンはついに「農耕」という生活手段を行わないままであった。同じ狩猟の民でなぜこうした違いが生まれたのだろうか。これはアニミズムの段階にある宗教と、一神教に移行した違いだけでは決して論じきれるものではない。

 ひとつ言えることは、レッドマンが生きるためにだけ狩猟を行ったことに対して、ホワイトマンは、趣味や娯楽としてのスポーツ・ハンティングのために、それに毛皮を得るための「商」の対象として飽くなき「野生の殺戮」を行ってきたことである。

 こうしたレッドマンの先祖たちが、面白半分で絶壁からマンモスやバッファローを追い落としたりするだろうか。ホワイトマンがいうレッドマンの殺戮は、パニックによって生じた偶発的な事故の状況証拠にほかならない。 
 
   シアトルの手紙


新大陸の支払った貴重な代償 ・・・ 侵略者の系譜

 アマゾンに代表される湿潤な熱帯雨林地帯と、ペルーやチリのように乾燥したけわしい高原山脈地帯に二分される南米では、細々と農耕とラマやアルパカの遊牧が行われてきた。実際には中南米でも豊かな森林があったのだが、ここでも乱伐が行われてそれを失ったという事実がある。

 新世界では7世紀始め、中米のメキシコを中心としたマヤ・アステカ文明が生まれ、南米のペルーを中心とした地にはアンデス文明、次いでインカ文明が興きている。ここでもまた中東の豊穣の半月弧地帯と同じように「森を滅ぼして文明も滅んでいった」のだ。クライブ・ポンティング『緑の世界史』は、

 最近の研究では、焼き畑農業に頼っていたと見られていたマヤでは集約的な農業が発達し、肥沃であるが侵食を受けやすい土壌は森林伐採で劣化を早め、川に土砂が流れ込んで水位と農地の微妙なバランスを失わせていった。環境の悪化は疾病を生み戦争を惹き起こし、都市や耕地は見捨てられいつしかジャングルの中に埋没してしまった。 

と謂う。アンデス・インカ文明が栄えたペルーは乾燥の激しい土地柄であるが、マヤ文明がジャングルの没したのに反して、荒涼たる山頂や山腹の「空中都市」に、かつての栄華をうかがわせるばかりである。この地も中東などと同じように、どうも一度伐った樹木がついに二度と生えなかったようだ。そうした環境の悪化に加えて、新しい災害がこの地を襲う。ヨーロパからの招かれざる客人の登場である。

 ヨーロッパの木材枯渇は、必然的に木材資源を求めての冒険の旅を生んだ。大西洋を経由してアメリカに至る西洋文明の犯した罪は、単に森林破壊に止まらず、そこに棲む原住民たちへの理不尽な仕打ちや動物の絶滅、それに奴隷という非人道的労働手段を新しい地域に持ち込み、しかもみずからの文明の維持拡大に利用し、消費していったことである。

 最初にポルトガル人によって発見されて「木の島」と名付けられたように、大西洋に浮かぶマデイラ島には、帆柱に最適のアトラスシダーの大木が密生していた。滋味豊かな水に恵まれたこの島でポルトガル人が選んだのは、サトウキビの栽培と精製であった。栽培のため森の樹木が伐採され、工場の建設、煮詰めるための燃料、圧搾のためのローラー、動力としての水車それに製品を運ぶ船材としての利用などなど、マデイラ島の豊かな森を失うのにさして時間は掛からなかった。

 次いでスペイン人は、西インド諸島でもマデイラ島に劣らぬアトラスシダーの森を発見する。なにしろ1000種におよぶといわれた豊富な樹種の生い茂る密林は、一日かかってもわずかに5キロほどしか進めないほどであった。アトラスシダーは貴重な船の帆柱に、ブナはブドウ酒やラムの酒樽に利用されていった。たとえば現地語で「緑の島」という意味のハイチでは、現在わずか10%の原生林を残すにすぎない。

 スペイン人は、ここカリブの島々でもサトウキビを栽培して砂糖を精製するために、森を伐採し原住民を過酷な労働に従事させた。劣悪な環境での過酷な労働、加えて彼らが持ち込んだ病原菌によって、原住民は徹底的に打ちのめされる。原住民の衰弱による死亡増加によって労働力は減少に一途をたどり、加えて日ならずして森林は枯渇し森に住む動物とおなじように絶滅を道を辿ることになる。スペイン人が不足する使役者を求めて取り組んだのは、アフリカから奴隷を輸入することであった。

 中世から近世にかけて、キリスト教徒にとって奴隷とはそもそも異教徒であり、しかも人間に値しない野蛮な未開の国の人たちであり、もっとも大きな利益を生む商品だった。奴隷船の劣悪な待遇と環境、そして過酷な労働で黒人奴隷の消耗も激しかったことはいうまでもない。しかも消耗すればいくらでも代わりの奴隷を送り込むことが出来たのである。

 言うまでもなく現在西インド諸島や中・南・北米に住む黒人たちこそ、西洋の人たちの暗黒の裏面史の生き証人であり、消すことの出来ないエレジーの譜面だったのである。

 征服者でありながら敬虔なキリスト教徒という2つの顔を持つ彼らにとって、それはいささかも胸の痛む行為ではなかった。なにしろかれらの教科書である旧約聖書のなかには、神の声として奴隷制度も異教徒の殺戮も認めており許しているのだ。

 1532年11月、スペインの征服者フランシス・ピサロ(1475?〜1541)は、わずか168人の兵で数万という部下に守られたインカの皇帝アタルワパを苦もなく人質にし、莫大な金を身代金として略奪した上で彼を殺し、多くのインカ兵を苦もなく殺戮してしまう。

 ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』は、インカを滅ぼしたのはピサロの兵だけでなく、彼らの銃による虐殺にも増して異教徒たちを殺戮したのは、彼らキリスト教徒が持ち込んだ病原菌(特に天然痘)だったのだという。彼らにとって異教徒を襲ったそうした病原菌、すなわち天然痘・結核・インフルエンザ・脳炎・はしか・腺ペスト…、これらはほとんど彼らが家畜とした動物からの歓迎できぬ贈り物であり、あるいはそうした動物を媒体とする吸血性害虫の媒介する病原菌によるものだったことに気付かねばならない。

 そうした病気にたいして免疫性を持たぬ西インド諸島や、中南米のインディオたちは、瞬く間にその人口をいちじるしく減少させてしまったのである。ここにも無意識ながらも遊牧の民の蒔いた災害の種があった。


アメリカの森林受難の軌跡

 こうしてまたたく間にマデイラ島・西インド諸島の森林資源を食い尽くした西洋文明の貪欲な胃袋の次なるターゲットは、北アメリカ大陸の東海岸ニューイングランドの豊かな森であった。

 1620年イギリスを追われメイフラワー号で、アメリカ東海岸に到着した102名の清教徒を待っていたのは、直径60cm高さ30mという帆船の帆柱に最適のストローブ・マツをはじめとする、萬古斧鉞(ふえつ)を知らぬ鬱蒼(うっそう)たる森であった。当時すでにロイアル・ネイヴィは、イギリスはおろかヨーロッパのどこにも、1本の木で彼らの軍船用の帆柱になる巨木を見つけることが出来なくなっていた。

 アメリカ大陸の東海岸はちょうど日本列島と同じような植生を示し、逆に西海岸はヨーロッパの地中海型植生に類似している。彼らはこの豊かな東海岸の森で思わぬ利益を上げることになる。あとを追ってこの地に乗り込んだ人たちは勝手に森を伐採し、砂糖から作ったラム酒と交換にインディアンから高価な毛皮や広い土地を騙し取っていったのである。

 徳川恒孝『江戸の遺伝子』は、次のように書いている。


 彼らが入植した東岸は、一面深い森に覆われた大森林地帯で、そこには森の民である多くの原住民が住んでいました。モヒカン族、アルゴンキン族など多数の部落です。アメリカ原住民というと、中部から西部にかけて住んでいた平原の部族、アパッチ族、シャイアン族などが西部劇映画でお馴染みですが、それだけであはりません。最初に西欧人に接触し、結局最初に滅んだのは東部の森の住人たちです。(中略)

 同書では、指導者の一人コットン牧師が書いた「マグナリア」という本から次のように引用しています。

 「これらの地域はその時、野蛮なインディアンや異教徒の諸族からなっていた。彼らに霊として作用していたのは、、魔王だった。悲惨な者たちからなる諸族の全宗教は明らかに悪魔崇拝だったから、この諸族が(略)悪魔の不利益になる、わが植民地を消滅させるために、悪魔に誘われて行動するのは自明だった」

 こうしてアメリカ東部の大森林は悪魔の住むところとして悉(ことごと)く切り倒されていきました。(中略)


 こうして見ると、自然というものに対する考え方が、西欧人と我々日本人とでは根本的に違っているところがある、もしくは少なくとも歴史的にはあったと思わざるをえません。征服するのか、共生するのか、ということです。


 その後続々と新天地を求めてアメリカに渡って行った人たちの数は次第に増加し、さらに新天地を求めて西へ西へと幌馬車を駆って移動する。かくして北アメリカ大陸の森林は、増え続ける人のための住居や暖房・炊事の燃料に、蒸気船の建造やその燃料に、牧場や農地用地に、(東西を結ぶ鉄道の建設にともなって)蒸気機関車の燃料や枕木にと次々と伐採されていき、緑に富んだ豊かなこの地の森林は次々と失われていった。

 クライブ・ポンティング『緑の世界史』によると、「無尽蔵に土地があると信じていた初期の入植者は、土壌保全にほとんど注意を払わず農業を続けた結果、19世紀に半ばになると、ニューヨーク州の小麦生産は土壌侵食のために100年前に比べて半減し、入植者たちは東部海岸のタイドウオーターから西部のビードモント地方まで、森林を切り開いて裸地にすることで侵食の危険性を高めながら着実に西に向かって進んで行った」のだという。

 入植が始まって100年もたたない1685年には、東部のバージニアでは森林破壊の影響によって深刻な洪水が起こり、18世紀になるとジョージアで土壌流出による大被害が現れ、深さ45メートルにも及ぶ侵食がいたるところに見られるようになった。

 森林そして環境の破壊は、その後もまだまだ続いていった。1934年におきた最初の大きな砂嵐によって吹き飛ばされた表土による砂塵は、3億5000万トンに及び、しかもその後幾度も繰り返されて広範な地域で農民や住民に大きな被害をもたらして、乳幼児の死亡率を30%も増加させ、呼吸器の患者を25%もふやすという惨状を起こしたのである。

 ジョン・パーリン『森と文明』もまた、このアメリカにおいていかに森が失われたかという悲劇的状況をこと細かく記しているが、特に当時随一の科学者であったインクリース・ラブハムの、次のような苦渋に満ちた言葉を紹介している。

 困ったことに、わが国民が現在享受している資本と富がいかにわが国の原生林に負うているかということを理解しているものはほとんどない。燃料、建物、柵、家具、多くの家庭用品、いろいろな機械の主たる素材は森から直接とられたものである。もしそうしたさまざまな品や道具がなければ、われわれは赤貧の状態に追いやられる。(中略) これほどの成長に寄与した要因を精密にかつ注意深く研究すれば、そうした要因のなかでいちばん大きかったものが安価な材木と薪であったことはだれにもわかるであろう。

 なにしろラブハムが生まれた1811年から、彼が森の荒廃に警鐘を鳴らした1867年にいたる間に消費された薪の量は約50億コード(森林面積にしてイリノイ・ミシガン・オハイオ・ウィスコンシンの四州に匹敵する)およそ30万平方kmが伐採されている。こうして失われたアメリカの森は、1835年の2560平方kmから、20年後には1万1200平方kmにまで拡大するのだ。

 1845年、カルフォルニアで金鉱発見のニュースで惹き起こされたゴールドラッシュは、8万人という禿げ鷲の大群を打ち続く津波のように西海岸へと殺到させる。カルフォルニア北西部からオレゴン州に亘るレッドウッド(アメリカ杉)の森はまたたくまに切り尽くされ、現在では「レッドウッド国立公園」にわずかに5%を残すのみである。同じように、カルフォリニアのシェラネヴァダ山脈付近に自生する、(世界最長の樹木であるメタセコイアを含む)セコイア杉の樹林もまた同じような運命をたどり、わずかな生き残りがセコイア国立公園でしずかに余生を送っているにすぎない。

 1850年にはまだアメリカ合衆国の25%を占めていた森は、その20年後にはわずか15%にまで減少してしまう。こうしたアメリカの森林受難は、燃料としての石炭と石油、素材としての鉄の利用が普及するまでの100年間以上も続き、加えるに農地化・牧地化そして砂漠化の進行によって、あの豊かで膨大なスケールの森林はいまや見る影もない。

 同時に世界の穀倉という立場を誇示するアメリカの農業は、化学肥料・農薬多給の近代型粗放農業であるが、降雨量の少ないことから地下水利用の潅漑農法に頼らざるを得ず、最近地下水の汲み過ぎが招来する塩害の発生や表土の喪失、土質の劣化など幾多の課題に遭遇しているのだ。


アマゾンの受難 ブラジルの憂鬱

 ふたたび南アメリカに戻ってみよう。2005年のギネスブックの新たな1頁に、(前20世紀の間に)ブラジルが、2,226万4000平方kmという、森林伐採世界一のレコードホルダーとして不名誉な称号を載せることになったという。現在かなりの改善が見られるというから、ブラジルにとって不本意なことかもしれないが、この国が「地球の肺」という別名を持つ、アマゾン河という世界的な自然資産を持っていることから、グローバルな視野で注目され喧伝されることになった。世界第5の大国ブラジルは、国土の30%、2億8200万平方kmという世界一の(牧畜を含む)農業生産国で、輸出余力も世界一である。逆にいえば、農産物以外に大きな産業を持たないということにもなる。

 アマゾンは、コロンビア・ペルー・ボリビア、それにブラジル高原から、雪解け水を集め、ナイル川に次いで世界第二の長さ、ブラジルのほぼ半分という世界最大の流域を持っているのだが、今以上に農業生産を上げようとすれば、どうしてもアマゾンの熱帯雨林の伐採を行うことになる。かつてブラジルは、野焼きと伐採による森林破壊で、世界の非難を浴びてきた。伐採の目的は高級で金になるマホガニー材で、その他の有用樹を伐ったあとは野焼きをして、農場か牧場にするというものである。

 ご存じのようにアマゾンの熱帯雨林は、少数原民族の居住地であり、薬用になる無数の植物を含め約6万種という植物、1000種に及ぶ鳥類をはじめ、無数の昆虫や貴重な哺乳類・爬虫類が生息している世界最大の生態系の宝庫でもある。それに温暖化進行という状況にあって、地球上の酸素の20%を占めるともなれば、その動向がいやでも世界の目を引きつけることになるのだ。

 いまグローバルにエコロジーを唱える声が大きい中で、現地の貧しい人たちによるわずかな生活の糧を求めるためのささやかな行為、それに農業資本家や農場主のエコノミー意識が交錯しているのだが、ここも熱帯雨林特有の痩せた土地柄であるため、ブラジル政府の的確な指導態勢が要求されるところである。

 この国では日本人農業移民が大きな影響を果たしてきた。ここでも貴重な森林保護に当たって、指導的な役割を担ってほしいものだが、最近のテレビで、日系ブラジル人が森と農業の共存をはかるアグリ・フォレストリー(agri-forestry )に取り組んでいるという情報が伝えられた。それは森を温存させたままでコーヒーを栽培するというものだが、またマホガニーの森林の周辺でコーヒーを栽培することで、自然の蜜蜂による受粉効果で20%も収量が上がったというニュースもある。今後の成果を注目したいところである。 

 一方暗い部分として、アマゾンの影に隠れた存在だが、それでも日本の国土の5倍に近い面積と、アマゾンに優るとも劣らない動植物の豊富な生態系を持つ、熱帯雨林地帯「マタ・アトランティカ」が、「現在地球上でもっとも危機的状況にある環境」の第5位にランクされている(国際的自然保護NPO団体コンサーヴェーション・インターナショナルによる)のだ。 この国の持つ自然の恩恵にあずかってきた人たち、そして国々が支払うべき代償はまだまだ多い。


オーストラリア・ジレンマ

 この国の歴史を簡単に俯瞰してみよう。

 3億年も前、地球にはパンゲアと呼ばれる巨大大陸があった。この大陸はその後地殻変動などで分裂し、グレートテクトニクスの奔流に乗って漂流していった。その一部インドはユーラシア大陸に激突してヒマヤラやカラコラム、それにチベット高原などを生むのだが、南半球にはこのオーストラリアと南極という2つの大陸が漂流していった。

 パンゲアから分かれた際、このオーストラリアという大きな船に乗っていたのが、進化の過程にあったカンガルーやコアラに代表される有袋類なのだが、幸運なことにこの巨船には天敵となる捕食者がいなかったため独自の進化を遂げたが、樹木ではその大半がユーカリ種という特異な植生となっている。

 このオーストラリア大陸にアボリジニの祖先が棲み付いたのは、今から約5万年前といわれている。彼らは当時氷河期の所為で海面が今より200mも低かったことから、アジア大陸から当時のスンダ大陸を経由してやって来たのだが、その後、2万年ほど前から始まった温暖化によって海面が上昇してアジア大陸との連絡が遮断され、この地で独自な狩猟生活を送ることになる。

 ヨーロッパ人の渡来は17世紀初頭に遡る。1602年に東インド会社をジャワに設立したオランダは、南半球の未知なる部分には肥沃な土地と資源があると信じて、この地にアペル・タスマンを派遣した。彼は二度に亘る航海を行うのだが、この大陸には貿易上のメリットはないと判断したところから、その後約100年間、ヨーロッパ人はこの地を見限ったまま過ごすことになる。ちなみにタスマニア島は、その際彼が発見した島の1つで、自分の名前を取って命名したものである。

 1770年4月、イギリスの探検家のジェームス・クックは、エンデバー号でシドニー郊外のボタニー湾に上陸した。その後北上して、8月には、ケープヨーク付近でオーストラリア東南部の英王室による領有を宣言した。1786年に入りイギリス政府は、オーストラリア大陸の占有植民地化に本格的に動き始め、東海岸にニュー・サウス・ウエールズ植民地の成立を決め、退役海軍将校フイリップを初代総督に任命した。1788年1月には、イギリスからの流刑囚780名を含む1200名がシドニー湾に上陸し、その後1868年までに、述べ15万8000人の囚人がこの大陸に送り込まれたのである。

 1897年にメリノ種の羊が南アフリカから輸入され、早くも1803年には、すでにその羊毛の輸出が始まっている。また同じ時期にニューカッスルでの石炭の発見もあって、1803年にタスマニアの領有を宣言し、1810年代には、シドニー西方の肥沃な平野を発見して、1825年に英領自治植民地として独立を果たした。1826年に、大陸の反対側の西オーストラリアへ入植が始まり、1829年に全オーストラリアが正式に英植民地となった。

 ご存じのように、この国の内陸部はほとんど砂漠かユーカリの疎らに生える乾燥した灼熱の荒地である。そのために人々は、海岸線に沿ってぐるりと張り付くように住むことになる。従ってこの国の農作物や牧羊は、いきおい内陸部に展開されるため、どうしても灌漑用水に頼ることになる。

 特に最近発生するエルニーニョ現象によって降雨量が減少していったことと、過度の灌漑によって地下水位の上昇を招き、そのため地中の塩分が地表に上昇することで生じる塩害が増え、2002年末にオーストラリア統計局は、塩害のため80万ヘクタールの農地が使用不能となり、全国的には200万ヘクタールに塩害の兆候が見られると発表した。

 調査では乾燥による塩害の方が多いというのだが、その被害は特に降雨量の少ない西オーストラリアの被害が顕著で、総数の半分に達する約7000農場の120万ヘクタールが使用不能、56万7000ヘクタールに塩害の兆候が見られるといわれ、その他南オーストラリアやビクトリアなどの地域でも大きな被害を被っている。

 考え様では、もともとこの地が農業に適した土地柄ではなかったということに尽きるのかも知れないが、とはいえこの国の巨大な畜産業は、もうすでに後には引けないのが現状である。このまま乾燥が進むとしたら、この国はどのようにソフトランディングを図ろうというのだろうか。


オーストラリア その虐殺の歴史

 この地のもう一つの悩みの種は、スポーツ・ハンティングのためにイギリスから輸入したウサギと、ネズミの害を防ぐためのネコが大繁殖して、天敵のいない有袋類生態系を大きく揺るがしていることである。また内陸部が極端な乾燥地で、人がわずかに海辺に張り付くように住んでいるオーストラリアでは、ここに生える樹木のほとんどが乾燥に強いユーカリ種である。かつての乱伐の反省から、現在この地で厳密な管理の下で木材として伐採を許されているのは、わずかに北部の亜熱帯樹林の一帯とタスマニア島くらいである。

 乾燥地に適したユーカリ種は、野火事に出合うことで初めて種子をばらまくようになっている。アボリジニたちは、草原に火を放つことでカンガルーなどを追って手に入れていたが、それを法律で禁止することで草が生え過ぎ、昨今その自然発火から大規模な火災となり、人家に大きな被害が生じている事実がある。ウサギやネコを始め、こうしたところにも人という種の浅知恵が見て取れるではないか。

 ここで問われるべきは、こうした西洋の民による殺戮あるいは抑圧が、野生動物にとどまらず異教徒という名の未開の人たちにも及んだ点である。西インド諸島の原住民しかり、アフリカから狩り出された奴隷しかり、バッファローのように虐殺されたインディアンしかり、ニュージーランドのマオリ族しかり、オーストラリアのアボリジニしかりである。彼ら(異教徒という名の未開の民)は、西洋の人たちにとってはまさに野生の動物に等しかった。林秀彦『日本を捨てて日本を知った』は鋭く指摘する。

  十八世紀、今のシドニー湾に上陸したイギリスからの囚人はたった1200人だったのだが、当時の推定で百万の人口を持っていた原住民アボリジニをまたたくまに虐殺・駆逐してしまった。 (中略)
  アボリジニ民族は、なんと四万年、一説では六万年前から、この大陸に住みついていたのである。最初に上陸したのはオランダ人だったが、その後ポルトガル、スペインなど白人の餌食となり、現在、約千九百万人の人口中95%がアングロ・サクソン(いわゆるコーカシアン)であり、アボリジニはその中の1%にも満たない。アボリジニの三分の二は、当時殺戮されたのである。


中でもタスマニア島の原住民に至っては、あの幻のタスマニア・タイガーと同じく絶滅の運命を辿った。しかもオーストラリアが、先住民アボリジニを正式な人口としてカウントしたのは、ようやく1976年に始まったという事実もある。こうした西欧の民の(非人道的な)行いは、彼らが「森」に対して行ってきた行為と見事にオーヴァーラップする。今彼ら西欧の民が説く、人権・動物愛護などという耳に心地よい思想こそ、そうした反省と贖罪感の上に成り立っているのだということをわれわれには知る必要がある。


地上の楽園ニュージーランド ・・・ その光と影

 大陸ではないが、南半球ではオーストラリアと並ぶ先進国で、風景や自然そして田園風景の美しい、最も天国に近い国の一つに挙げられるニュージーランドの場合はどうか。

 この南北2つの島からなる国は、1642年に前述のオランダ人船長、アペル・タスマンによって発見されるのだが、事前に派遣した四人の調査員が、戦闘的なマオリ族に殺害されたことで上陸を断念する。その後彼はこの島をその故郷であるオランダのジーランド州に因んで、ニューゼーランド(new zeeland)と名付けている。

 1769年、有名なイギリス人航海家ジェイムズ・クックが北島に到着、西欧人として始めて上陸を果たした。その後先住民マオリとの間に争いや和解を繰り返すのだが、結局彼らの持ちこんだ病気に対して、免疫力も抵抗性も持たないマオリ族は、この西欧人による未知の病気によって、打撃を受け大きく人口を減少させることになった。もっともマオリ族も、もともとの住人ではなく、1000年ほど前に船を駈って南太平洋の島々からやってきて、先住民を滅ぼしたポリネシア人である。

 1840年にイギリス政府は、マウイ族との土地売買を定めた「ワイタンギ条約」を制定するのだが、ここでも西欧人たちは、例によって脅しと騙しのテクニックを駆使することで、1890年にはマオリ族の土地をわずか六分の一に激減させてしまう。

 1880年代には、増大した羊毛や肉の需要から、本格的な生産を目的に原生林を無造作に伐採して、強引に一年草の牧草地に変えることになった。案外知られていない事実だが、そのときの後遺症である負の遺産は、今もなお北島のノーザン・ワイロア川に見ることが出来る。急速な森林伐採によって、上流付近の表土は激しく削られ、その土砂は川に流れ込んだ。ところが3mにも及ぶこの川の干満の差によって海水は遥か上流まで遡上するところから、上流の泥水を決して下流まで運ぶことをしなかった。その結果100年を超えた今でも、この川の泥水は昔の愚業の生き証人であり続けている。

 かつてこの地には、カウリと呼ばれるナンヨウスギ科の巨木が繁茂していた。マウイ人はカウリをカヌーとして細々利用してきたのだが、西洋人はここでも船の帆柱を始めとする旺盛な木材需要に従って飽くことなく乱伐し、その地を牧草地に変えていった。今ではカウリは原生林時代のわずか4%ほどが北島北端の国立公園の4000fを中心に、細々と生息しているに過ぎない。

 理想的な放牧サイクルとは、たとえば現在羊の一群が牧草を食べながら移動して牧野を一巡すると、始めの牧草にありつけるという仕組みである。こうしたことが出来る国は、イギリスとこの国だけだといわれている。たとえば羊の最大飼育数を誇るオーストラリアでは、乾燥地が多いため人口散水装置に依存することでようやく草地を維持している。

 なにしろこの国の人口約350万人に対して、羊の数は10数倍の5000万頭を超える。この膨大な数の羊を理想的な広さの牧草地で飼育するために、この国は実に国土の半分を当てているのだが、こうした仕組みを獲得してきた裏には、飽くなき森林破壊というエレジーが隠されていたのだ。

 その後ようやく自然保護意識に目覚めた人たちは、アメリカから30年で立派な成木になるという、成長の早いラジアータ・パイン(別名ニュージーランド・マツ)を移入して森林復活に力を注ぐようになった。われわれが自然の森だと信じてきたこの国の森のほとんどは、ごく新しい人工林だったのである。

 森林破壊と共に忘れてならないことは、動物生態系の破壊である。イギリス(主としてスコットランド)移民の彼らは、お得意のハンティング目的で、本国よりアカジカ(日本からもシカが持ちこまれ、彼らも〈シカ〉と呼んでいる)・キツネそれに狩猟用のイヌたちを移入した。ところがそれらの動物やイヌまでが、天敵のいないこの地で野生化し大繁殖して、有袋類や飛べない鳥キウイなどを駆逐し始めたのである。

 しかもシカたちは、森林地帯の土を踏み固め、そのため地中に浸透しなくなった雨水が森の表土を洗い流して、森を衰弱させるという環境破壊まで惹き起こしている。またそうした動物の駆除も、動物愛護団体との軋轢(あつれき)の中で、遅々として進まないのが現状で、地上の天国といわれるこの国の悩みの種となっている事実を見落としてはならない。

 森との共存を無視し否定しながら破壊し続け、よりよい環境を求めて数千年の間移動を繰り返しながらアメリカに到達した西洋文明は、新大陸の東海岸から遂に西海岸という極西の地に達した。これこそ「移動という西洋文明の構図」が行き着いた状態を示している。

 「西洋文明」は、この地で終焉を迎えようというのか、あるいはユーロに衣替えしたヨーロッパに里帰りしようというのか、それとも海を渡って、再びアジアの地で「西の花」を開花させようというのだろうか。いずれにしろ彼らは、過去4000年に亘り世界中の膨大な森林破壊に携わってきたことの贖罪の意味を含めて、今こそヒト存続の鍵として、森林の保護育成という緑への回帰の道を歩むべきではないか。

 新たな世紀を迎えた今、ここアジアの地で再び「西欧発の終末思想」と「東洋発の輪廻思想」が形を変えて邂逅しようとしている。果たしてこの21世紀、われわれを待ち受けるのは東西二大文明の衝突という悲劇の幕開けなのか、それとも文明の融合という共生のシナリオなのだろうか。

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