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森と人の地球史

***** 日本の抱える難問と解決策 *****

日本の森 その破壊と再生の歴史

日本の森はいかに失われてきたか?

 1万年という気の遠くなるような長い期間、縄文人の人口は温暖によって振れながら、なべて10万人から30万人くらいだっただろうと言われている。縄文時代の集落はら多くても50名程度で、まれには三内丸山のように数百人という規模もあったが、その集落周辺にはプロトタイプとしての里山はあったとしても、大規模な環境破壊など起こり得なかった。

 縄文時代の主食は、その期間を通じてドングリ・クリ・トチ・クルミなどの堅果であったから、自然にそうした樹木の保護を通じての軽い人為的攪乱はあった。たとえば三内丸山では、主食と目されるクリに、栽培が行われたことをうかがわせるDNAの均一化が指摘されている。また縄文時代すでに「焼き畑」という農耕様式が現れ、ヒエや熱帯性ジャポニカ米の栽培が知られるが、それでも人口分布が稀薄なことと石器の乏しい破壊力もあって、大きな森林破壊には至らなかった。

 次いで弥生時代に入り、「縄文×弥生」という混血新民族の誕生と水田稲作という「農業革命」による急速な人口増加から、環濠集落や水田の造成が進むことで、森林を中心に環境破壊が急激に進行していった。鋭利な青銅器や鉄器の出現は森の伐採を容易にした。人口の増加につれて、住居・倉庫・望楼・防護柵の建造、それに水田の造成から生活用燃料、それに土師器・須恵器・埴輪、銅器鋳造・鉄の鍛造、製塩などなど、燃料としての木材の需要は増大の一途をたどり、日本における森林破壊は急速に進んでいった。

 その一方で、集落周辺の(常緑・落葉広葉樹林を中心とした)陰樹による原生林・自然林は、腐葉土・落ち葉・柴・マツカサなどを肥料や燃料として利用するという人為攪乱によって破壊され次第に地力を落としていき、代わってクヌギ・コナラ・アカマツ・ウバメガシ・クリなどの陽樹による雑木林の成長が促され、水田耕作を支えるための「里山」という仕組みが次第に出来上がっていった。雑木林は伐採したあとから新しい幹が成長し、10〜15年というサイクルで再生が果たし、ムラを支える重要な役割りを担うことになった。 魏史倭人伝(三国志・魏書東夷傳・倭人)には、

  其の山には丹有り。其の木には (くす)・杼(とち)・豫樟(くすのき)・揉(ぼけ)・櫪 (くぬぎ)・投(?)・橿(かし)・烏號(やまぐわ)・楓香(おかずら)有り

と記しているが、まだ当時の日本の地には、風物詩的景観を代表するマツがあったと記載されていない。その後森林破壊と里山の形成という、人為的な攪乱と収奪によって痩せ地化することで、ようやく(痩せ地を好む)マツが出現して勢力を張っていくことになる。マツという陽樹は、陰樹伐採で極相林が破壊されることで、日光と露出した更地を舞台に活躍した主役だったのである。

 成長が早くしかも燃焼カロリーが高いマツは、土師器・須恵器の製造、銅・鉄の溶解・精錬、それに食塩の濃縮などに利用されていった。日本の風物詩を彩る海岸のクロマツと内陸部のアカマツは、弥生の中後期から古墳時代に亘って西日本中心に現れるが、このことは農耕の普及によって(集落を中心に)土地が痩せてきたことを示している。特に本来照葉樹林地帯であった瀬戸内周辺の山林は、水田への転換、里山の形成、そして生活用の燃料にとどまらず、タタラによる鉄の精錬や食塩の濃縮のための燃料としてにはげしい収奪が繰り返され、次第に痩せて荒れ果てた植生になっていった。

 日本の幕末期、珍しい未知の植物の採集を目的にした、プラントハンターという特異な職業の第一人者英人ロバート・フォーチューン『幕末日本探訪記(江戸と北京)』は、そうした瀬戸内海の荒れた山林について、

  何かの理由があるにしても、この地方では何千エーカーの土地を荒廃させたままにしたり、価値 のない草むらを茂らせている。とにかく瀬戸内海の海岸は美しいけれども、航海者には不毛の光景 を呈する。

と、この地方のすさまじい森林被害の様子を記している。もともと花崗岩の風化した真砂土主体の土壌である瀬戸内地帯では、乱伐による攪乱で極相=陰樹である照葉樹林から、陽樹のアカマツ林へと逆行することになった。結果として広島地方が戦前から松茸の日本一の産地になったのだが、これはいかにこの地の樹木の収奪が激しかったかということの証明でもある。

 現在に至って、プロパンガスの普及によって木を燃料として利用しなくなった結果、里山の放置による土地の肥沃化が進み、痩せ地を好むマツは徒長して虚弱になってしまう。現在著しい松枯れの進行は、排気ガス・マツクイムシの被害をいう前に、直接の原因として里山の放棄からくる肥沃化に負うものが大きいことを知るべきである。

 広島県を中心に瀬戸内周辺に見られる白骨化し枯死した松の目を覆うような惨状の下から、次第に極相林としての照葉樹が繁茂し始めているていることを忘れてはならない。当然ながら、松枯れの進行と同時に(かつて日本一といわれた)マツタケの生産減少が顕著になるという皮肉な結果を招いたのである。

 ちなみに、陽樹とは痩せ地で成長するのだが、樹木の生育には、その樹木と共生する「菌根菌」が不可欠である。栄養の少ない土地では、特に菌根菌との強い関係が欠かせない。松の菌根菌が「マツタケ菌」なのだが、肥えた土地では、その地質に適した陰樹という樹木の菌根菌との競合に負ける運命にある。このことが今日本での、マツタケの生産減少に繋がっていることを知らねかばならない。


都の造営と森林破壊

 奈良時代と呼ばれる飛鳥・白鳳・天平の御代から、チャイナに傚う宮処=都の造営そして遷都が、京都の平安京造営まで相次ぎ、そのために多くの樹木が伐り出されていった。同時に仏教の普及による佛閣の造営が著しく増えて、ますます大きな樹木の需要が生じ、併せて仏閣に取り入れられた瓦を焼くための燃料や青銅佛製造、また木像の量産など巨大に膨れ上がった需要をまかなうため、周辺の山林樹木の乱伐が急速に進められていった。

 それに船の製造が加わる。大和政権は、唐・新羅連合軍との白村江海戦(663 )にのぞんで、百済を助けるために多数の将兵を参戦させる。その時の(唐水軍の軍船より倍も大きかったといわれる)日本の軍船は約400艘といわれたのが、唐・新羅連合軍との海戦にもろくも大敗することによって、このおびただしい軍船はあっけなく海の藻屑と消えてしまう。その後より新しい文明を求めて遣唐使船が活躍することになるのだが、脆弱な船の半数は目的地に着くことなく海底に沈んだといわれている。

 その後の宮処の移転・造営ブームによって、全国的に森林受難の幕が切って落される。まず狭い奈良・飛鳥の地で、6世紀から7世紀末の藤原京(694)まで、実に10回の遷都が繰り返され、平城京でようやく74年間、そして山城の長岡京で10年間、唐の都長安を摸して造営されたという京都の壮大な平安京にいたって、ようやく遷都は終焉するものの、相次ぐ都城の造営によって膨大な樹木を消費することになった。

 たとえば藤原京では、宇治川や木津川、平城京では大和川や明日香川という河川を利用して上流より膨大な材木が伐り出されて運ばれたのだが、それは結果として上流の森林の破壊による洪水を続発させ、土砂の流出で「淵が瀬になる」状態を招来することになった。藤原京の場合をとってみると、役人の執務する朝堂院の一帯だけでも2000本余り、宮殿を囲む塀には、直径40〜50mの木材が1500本以上も使用されたという。

 加えて藤原京では初めて大量の瓦が使用されたのだが、それには大和だけでなく、河内・近江、遠くは淡路島や讃岐で造られものが、実に200万枚も使用された。この膨大な瓦を焼くためにも、気の遠くなるような量の木材燃料が消費されたのである。 その後京都周辺の山からもおびただしい樹木が伐採され、今に到ってもその辺りは樹木の乏しい痩せ山であり、広島と並ぶマツタケの産地といわれることからみても、いかに「都の造営」による土地収奪がはげしかったかが窺われる。

 「淵が瀬になる」  古今和歌集(巻一八) (詠み人知らず) 
    ’世の中は なにが常なる あすか川 昨日の淵ぞ 今日は瀬となる’

木材消費の象徴「大仏殿」

 さてこうした度重なる遷都による宮拠の造営、神社佛閣の建築それに佛像造型のために、ただ大きいだけでなく良質な材が要求され伐採され、ヒノキ・クス・スギなどの大径の良材は、またたくまに払底していくのである。たとえば「高さ五丈三尺六寸(約16メートル)、重量約250トンという世界最大の奈良東大寺の青銅製大佛を鋳造するためには、16650石(一石=約180リットル)という、膨大な木炭を消費することになった。

 こうした量の木炭を作るためには、おそら数百ヘクタールの森林が伐り尽くされたことになる。別の記録によると、「銅約500トン・錫約8.5トン・水銀約2トン・金は440キロを使い、約10年という年月と90万人の職人を含む、延べ126万人が動員された」とある。当時の金鍍金(金メッキ)法は、金を水銀に溶かして青銅の表面に塗布し、水銀を蒸散させるという技法が用いられた。そのため、おそらく多くの鍍金に関わった、水銀中毒によって死んだことだろう。

 また当然ながら、木造建築には火災がつきものである。たとえば1998年に「世界文化遺産」に登録された東大寺大佛殿も、かつて2度にわたり、大火に見舞われて消失している。その再建のたびに膨大な良質材の需要が生じたのだが、近辺での調達が困難となり、また次第に径の小さく材質の劣ったものの使用を余儀なくされていった。

 結局大佛殿再建のための巨材の入手は、全国に及ぶ勧進によって賄われることになったのだが、最初、治承4年(1180〜1185)、源平による「治承の乱」の兵火で焼け落ちた時は、俊乗坊重源が大勧進職となって諸国を回り再建を果たす。

 現在の大佛殿は元禄時代、公慶上人の勧進で宝永六年(1709)に再建されるが、その材は主として山口県防府市の佐波川上流から切り出された。もともと大佛殿の最初の大柱は、口径三尺五寸(106センチメートル)以上長さ百尺(約30メートル)のものが八十四本使用されていたのだが、再建に当たって、すでにそうした巨大木の入手が不可能となり、最初の建物より一回りも二回りも小さくなっていったのである。

 結局良材の払底は、必要な柱材を得るために、より多くの材木を犠牲にすることにもなった。コンラッド・タットマン『日本人はどのように森をつくってきたか』は、公慶上人の勧進による材木の調達の様子と、良材の不足と払底、それに森林破壊の状況について、

 畿内の建設者による探索は、本州の西端から九州にまで達している。(中略)さんざん調査したあげくに、本州の西端に近い佐波川の上流で主柱として十分使える大きさの林木を見つけることができた。(中略) 倒してみると樹木の多くは空洞になっていたり、節だらけであったり、基準に合っていなかったために、作業員たちは数十本の柱を取るのに数百本もの木を伐り倒さなければならなかった。

と記している。こうした巨大で大量の材木を伐り出し運び出すためには、どうしても周辺の森林を伐り開かなければならない。こうして日本の森は荒れ、価値のある良材をますます失っていくことになった。


なぜ日本は遷都を繰り返したか
         ――穢れ思想再考


 日本では奈良時代に入って、ようやく政治の中心となる宮処を造営しながら、なぜたびたび遷都を繰り返してきたのだろう。ただ当時の宮処のほとんどは、今で考えるような大きな都邑ではなく、天皇を中心として、施政者として執務を行う行政府の集まりだったようだ。それにしても天皇が崩御するたびに、大きな時間と労力、それに材木を始めとする資材を浪費してまで、なぜ宮処を移転する無駄なことをする必要があったのだろうか。

 (前述の通り)豊田有恒『神道と日本人』は、「それは日本人の穢れ意識によってもたらされた」という、興味深い仮説を提示する。今神道は宗教という衣を纏わされているが、この宗教という言葉自体、明治12年にキリスト教徒である小崎弘道によって’RELIGION’の訳語として(多くの反対を斥けて)採用され、その際に神道も宗教の仲間入りさせられてしまったのである。ところが本来宗教には、教義・聖典が不可欠なのだが、もちろん神道はそんなものは一切持っていないし、布教するために正統性も必要なのだが、第一神道に布教など聞いたこともないし、正統もなければ異端もない。信仰が衰えれば、よそから勝手に霊験あらたかなる神を借りてくる。今でも神道が宗教であると誤解されているところに、この国の不幸があるようだ。

 では神道にはなにがあるのか。豊田有恒は、「この自然崇拝の世界観には、清らかなものと穢れたものに二分される。この穢れたものは西洋的な対置概念や二分法でなく、清めることが可能なので、一時も早く清めなければならない。この清める方法が〈禊〉〈祓い〉なのだ」と謂う。

 古代日本人の心になぜこうした穢れ意識が、それを祓(はら)い禊(みそ)ぐという行為が生まれたのだろうか。記紀には火の神を生んだことでミホト(陰部)を焼かれて亡くなられたイザナミの神を追って、夫イザナギの神が黄泉の国を訪ねる記述がある。(ギリシャ神話にもある描写だが)決して見るなといわれても好奇心に勝てず、ついイザナミの醜く腐乱した死穢の姿を見て驚き、イザナギが慌てて逃げ出すシーンが生々しく描写されている。

 つまり日本人は、最大の穢れを死んだ姿に見出すのである。神道というアニミズムから脱皮出来ないままの現世宗教には、「死後の世界」などはない。豊田有恒は、「このような人の死という最後のエポックから逃避した、つまりこの死穢を忌むという神道は宗教の体をなしていない」といい、こうした(いい加減な)神道唯一無二の教義が、いわば死穢からの遁走であって、そのため先代天皇の死に当って、次ぎの天皇をしてその穢れから逃れるために、狭い飛鳥という盆地の中で、あちこち宮処を移させたのだという。

 ここから類推した筆者の仮説は、幾度となく遷都を繰り返した揚げ句、平安京を都と決めた後にこの行為が消滅したのは、まず国家発祥の地大和(奈良)を捨て去って、神道から一定の距離を置くため、この地を仏教の町とすることによって、やっと死穢の重圧から開放されたこと、しかも神道が仏教と邂逅し混淆することによって、ようやく死穢の処理、すなわち葬儀の手段を、まるごと仏教という異教に押し付け、またその後死穢の処置を、「火葬」という一種清め、禊ぎ手段を採ることで、この遷都というやっかいな作業から開放されたのではないかというものである。

  さて、度重なる遷都を行わせた「死穢」の祟りの現象として、洪水や渇水などの自然災害の多発、それにもう一つ加えるならば、恐ろしい疫病の多発があった。当然自然災害の多発は、都の造成に伴う森林資源の乱伐によって生じたものであり、疫病の多発は、(当時の人たちの預かり知らぬところであったが)帰化人によってもたらされたのである。

 飛鳥時代以降、大和王朝の中枢部には、帰化人が多数を占め、それに付随して多くの工人や技術者もやってきた。帰化人には家畜由来の疫病に抵抗力があったものの、免疫性を持たぬ大和の民は、身分の上下を問わず(天然痘をはじめとする)ナゾの病魔に冒され、次々と命を失っていったのである。それが「祟り」と恐れられて、「穢れ」と忌避されて来たはずである。不幸中の幸いは、帰化人たちが純粋の「遊牧民」ではなかったことと、日本人の極度に「穢れ」を回避する性状が、被害を最低限に押しとどめたことであろう。 

 こうした「死」そのものを極度に恐れてきた日本人の本能的傾向は、どこから来たのだろうか。これは恐らく、狩猟という生活手段が困難であって、そうした動物の死を直面し直視することが余りに少なかったことも一因ではないか。今でも多くの日本人は、家畜や家禽の屠殺ですら惨たらしいとして嫌悪し、決して直視出来ない。そうした性状が、世界では常識であった生け贄を、逆に忌むべき存在としてきたのである。

 かくして京都の平安京に至って、ようやく遷都という手段を捨て去ることになるのだが、いわゆる仏教が渡来し、唐様といわれた奈良(飛鳥・天平・白鳳)時代は、恐らくまだ神道と仏教の確執が続いていた時代であったといえよう。その後紆余曲折を経て、ようやくお互い「現世の神道 来世の仏教」という棲み分けに落ち着き、京都平安京という新たな本格的宮処が生まれて定着することによって、多くの人たちが集まり、都城として体裁が成されていくことになるのだが、今度は新たに都として充実させていくため、ますます材木の需要は増え続けることになったのである。


武家社会も森を浪費した

 やがて奈良・京都を中心とした公家政治が終焉して、武家社会が到来した。源平の角逐の結果、硬骨の源氏は京を拒んで鎌倉六波羅に幕府を開くのだが、今度は新興勢力の武士にも新しい木材需要が発生した。武家が思想的拠り処として信仰したのは厳しく身を律する禅宗であった。そこで禅宗寺院建造ブームが起き、それに付随して運慶・堪慶という天才親子の活躍もあり、彫像芸術が隆盛を極めた。

 源氏を頭領と仰ぐ御家人たちは、その所有地の森を開いて砦を建てた。武家社会の要請は、刀剣・甲冑の製造であり、兵馬の「飼い葉」という新需要であり、人口の増大した御家人の住居建設であった。最初はまだ武士と農民の区別はなかったが、次第に専業の農民は増加していき、田地開発にと森林の受難は決して減少することはなかった。

 守護職や寺領荘園、御家人の所領を支えたのは当然その地の農民である。農民のリーダーは強力なリーダーシップを発揮し、またムラの仕組みを秩序あるものにするため、ムラ共有林として直接的山林管理を図っていくようになる。ただ依然としてそうした山林管理は消極的な域にとどまり、領主の要望があれば否応なく伐採に手を貸す他はなかった。

 平家を追い落とした源氏の世は余りに短かった。源氏に代わって執権という形で政権を奪った北条氏は、時宗(1251〜1284)の代に日本を襲った元冦という国難によって力尽き、南北朝という天皇家の内紛に乗じた足利氏にその覇権を譲ってしまった。この天皇家分裂という前代未聞の国難に当たり、その中で生まれた美学が足利家にくみした佐々木道誉(1296〜1373)の度を越えた刹那の華美と、異端と反逆を具現した「バサラ=婆沙羅」である。これは案外平安の「雅」と、鎌倉の「侘・寂」の間で生まれたハイブリッドなのか、それとも一代限りの奇形児だったのだろうか。

 その後足利家の衰弱を契機に、応仁の乱(1467〜)から「戦国」という殺戮・破壊・浪費・消耗の時代が始まった。まさに日本では、かつて類を見ない、鬼っ子的な弱肉強食・下克上の始まりである。京の町は阿鼻叫喚の中で、貴重な神社仏閣の多くを灰燼に帰してしまうのである。その後戦国武将は、鉄砲に対応するため西洋の甲冑を真似た南蛮鎧や、鉄砲・刀剣・槍などの製造に、砦の建築から壊された家々の修復など、森の破壊にますます拍車を掛けていった。

 信長の天下平定、後を継いだ秀吉という織豊時代は、安土・桃山時代と呼ばれる優美な文化を謳歌した時でもあった。やっと戦いは終わったものの、(結局灰燼に帰したが)人の目をそばだたせた信長の安土城、それに秀吉の聚楽第など、贅を尽くした建築物が建造され、また朝鮮征伐などという無謀な作戦などの浪費が続き、やがて徳川の時代へと移行する。

 家康が未開だった江戸に幕府を開いたのは、すでに名古屋以西には森林資源が枯渇していたこともあっただろう。平和が戻った江戸時代には、城郭は山から平野に下り、それを囲む城下町の形成の進行と人口の増加が進んでいった。

 やがて江戸は、次第に人口を増やしていき、百万人という世界屈指の大都市に変身した。「火事と喧嘩は江戸の花」と唄われたように、たび重なる火災・地震による被害や復興と材木の需要は増加し、材木の需要は底無しで、山林資源の枯渇化はいよいよ深刻になっていった。そこで江戸幕府が採ったのが「植林事業」だったのである。


日本の森 再生の歴史 ・・・ 江戸の植林事業

 日本の森が辛うじて破滅を免れ、その生存を保持出来た理由として、雨の多い湿潤な気候に加え、あまりに深くて峻険な山岳地帯が多いこと、それに聖域としての鎮守の杜、寺社の所有林の存在が挙げられるが、なによりも増して有効だったのが、江戸幕府による世界でも珍しい積極的森林保護策としての「植林事業」であった。

 コンラッド・タットマン『日本人はどのように森をつくってきたか』は、「江戸時代における日本の森林保護育成の成果は、日本人の有した造林の知的背景にあり、世界的に見ても高く評価出来るものであった」として、当時数多く出版された造林手引書の存在と、17世紀には、すでに政治的指導者や政府の顧問などが、森林の安定性・生産性の維持を主張していたさま、たとえば1650年ころ桑名藩主、松平定綱は伐採事業者に対して「一本伐ったら千本植えよ」と指令していることなどを詳しく紹介している。

 第四章で述べた、ドイツのビスマルクが「樹木一本を切ると二本植えように」という規制に比べても、いかに厳しい森林保護意識を持っていたかがわかる。曰く、

 (前略) 政治評論家であり顧問であった山鹿素行も、適切な時期に伐採すること、過剰に伐採 しないこと、収穫したところには植林するよう忠告している。一八世紀になると、こうした勧告は より具体的になってくる。小大名の助言者である貝原篤信が1709年に述べたところによると、 もし伐採事業者が「山の森林を数十の区画に分け、一年に一区画ずつ伐採すれば、全森林は青々と 維持され、材木は増える」といっている。

 タッドマンは、これは世界的に見ても先進的な輪伐理論であり、すぐれた森林保護テクノロジーだと評価する。江戸時代には、こうした指導者による啓蒙が進んで、この「輪伐」という理論をはじめとして、的確な造林原則が知られるようになると、マツの燃料生産についてのマニュアル書『地方聞書』など、いわゆる造林ノウハウとかマニュアルを教示した農書が、いくつも書かれはじめることになったのだ。彼は、有名な『農業全書(宮崎安貞 全十巻(1697)』は、最後の二巻を割いて樹木と森林にあてているなど、当時の日本の森林保護思想の高さを評価する。

 たとえばこれらのマニュアル書には、「いたずらに山間部に穀物を作っても鳥類に食われるだけだから、クワ・コウゾ・ウルシ・チシャなどを植える方が得策である」とか、「土壌の特性を掴んでそこに適した植樹をする」こととか、その「維持が大切で地味を保持しなければ成果は得られない、家の回りに木を植えれば冬風を防ぎ、強盗の侵入を防ぐ」などなど微に入り細に亘って記載しているという。

 森林保護の中心となったのは、森林の約4分の1を保有していた幕府であった。例えば今の林野庁に当たる「山奉行・森奉行」などという森林官吏を置き、「留山・留木」などという制度をもうけて、積極的な生産林から伐採制限の保安林を作り上げていき、各藩も次第に幕府を見習い、森林保護を進めていくことになった。こうして江戸時代に定着した森林保護策と造林ノウハウが、現在の日本の森林の現状を留保し得た最大の原因だったし、それが自然萌芽による植生の再生力の利用だけでなく、それに実生・挿し木・枝切り・間伐などという技術となって今に活かされ続けているのである。

 コンラッド・タットマンは「決して日本人が森を恐れそして愛してきたから森が残ったのではない。それは江戸時代の植林事業があったからだ」と明確に言ってのける。日本人誰しも心して聴くべき苦言である。


ヨーロッパの森 日本の森

 ではこうした森の保護に関する姿勢には、同じように当時封建制度の下にあったイギリスと、どんな違いがあったのだろうか。コンラッド・タットマンは、

 律令時代の規則においては森林に対応する「林(はやし・りん)」は自然の森でなく樹木が人為的に植えられた土地を意味していた。つまり「林」というのは人間が意図的につくり上げたものである。同様にして、中世のイングランドで forest (フォレスト)という言葉といえば、そこにある植生が何であっても、森林法によって王室の財産と明記された土地のことであった。また、 forest という言葉は、「閉め出す」を意味する中世ラテン語の foris stareに由来し、指定された森林区画での住民の使用権を拒むときに使われていたようである。
 日本でもヨーロッパでも「林」または forest は人間の意志の産物であったが、日本の場合は植樹という「積極的な」政策から生まれ、ヨーロッパでは自然植生の利用を制限するという「消極的な」政策に由来するものであった。


と日本とイギリスの森林の相異性を明確に指摘する。我々は明治という文明開化に当たって、実に多くの外来語に日本の文字を当てはめて来はしたが、我々の意識にある森や林に対して、決して「フォレスト=閉め出す」という要素を移入することをしなかった。西欧の封建主義と日本のそれとの差異にも由来するのかもしれないが、森そして領地所有のかたちにも大きな違いがあったのである。

 たとえば残されたヨーロッパの森は、封建領主や貴族の最大の娯楽であったスポーツとしての狩猟(hunting)の場として、また彼らや教会の資産として、頑強に農民の侵入を拒んできた経緯がある。たとえばイングランドにおいて、貴族の所有する領土(Park)に侵入してその森林の不当な伐採を行ったり、野生の獣や家畜を密猟した者に対する仮借のない刑罰は、日本においては決して発生しなかった。こうして残されたイングランドやヨーロッパの景観と、日本の風景の間に大きな違いが生じたとしても不思議ではない。

 結果として、イングランドをはじめヨーロッパにおける一見自然と見られる景観が所有者の意向として、人工のデザインやトリミングによって見事に観賞に耐えるものにしつらえられていったのに反し、日本では、林の語源が「生やす」からきているように、人工的な植林による「森林資源」の保護・増加を目的としてきたこと、加えてその植生の余りに活発なことから雑草が繁茂し、景観という面で当然見劣りするものになっていったのはやむを得ない。

 ヨーロッパの森の受難は、産業革命に当たって「石炭」という新燃料の発見・利用によってひとまず終焉した。同時に、かつての自然破壊に対する反省もあって、森林や自然の景観の保護という意識も次第に高まっていったのだが、日本においては明治維新という大きなパラダイム・シフトの時に当たって、再び森の受難の到来の危機が始まることになる。それは300年近く続いた「サムライという不労所得者階級」の崩壊によって、にわか就農者が急速に増加し、新耕地を求めての開拓という名の森林伐採がふたたび頭をもたげることになったからである。

 日本人は日清・日露という2つの戦いによって得た、新領土(朝鮮・満州・台湾・樺太)への開拓農民だけにとどまらず、南・北アメリカなども移民としての道を選ぶことで、(結果から謂えることだが、移民という行動によって)皮肉にも日本における森林破壊の進行が食い止められることになったことになる。結果として日本で唯一大きな森を失ったところは、同じように屯田兵や開拓民として進出した(本土とは似ても似つかぬ)広大な平野の拡がる北海道の地であった。

 豊田有恒『北方の夢』によると、幕末から明治にかけて函館を舞台に活躍した、元英国砲兵士官トーマス・R・ブラキストン(1832〜1891)は、北海道の豊富な森林資源に目を付け、最新鋭の蒸気機関と製材機を導入するが、まだ石炭が手にはいらぬところから、最初木材を燃やして製材を行った。好奇心が強くて新しいものにすぐ飛び付く日本人が、この機械を取り囲んだ大勢中での試運転は大成功だったが、結局「北海道の森林は数年ならずして、すべて伐り尽くされ禿げ山になるだろう」という懸念をもらした、函館住民の言葉も記録として残されていると謂う。

 もっともブラキストンには卓越した企業家としての能力と同時に、稚拙な商売人という矛盾に富んだ性格があり、本業よりも博物マニアとしての生活を優先したためもあって、製材業は成功しなかった上、彼自身が北海道にいくつも炭鉱を発見したこともあって、なんとかこの地の森林の枯渇は免れることになったのである。

 その後(ブラキストン自身も予想し提唱した様に)この地には「酪農」を主体とした農業や、ジャガイモ・トウモロコシなどの農耕が普及し、次第に広大な森林や湿原は減少していったのである。かくして彼ブラキストンが心から愛した世界最大のエゾオオカミは絶滅し、天敵のなくなったエゾジカの増加をもたらして森林を衰弱させ、同じく世界最大の魚食フクロウ=縞梟もまた絶滅の一歩手前まで追い込まれていったのである。

 この北海道は、最後のヴュルム氷河期時代に海面の低下や氷結によって、沿海州・サハリンと陸続きであった時代に、人を含む多くの動物が、北海道に移り住んだが、津軽海峡の深さが本土への移住を阻んだため、その地の動物相(fauna )が日本本土と異なったことを最初に発表したのがブラキストンである。その結果、(北海道と本土の間の)津軽海峡に引かれた動物線を「ブラキストン線」と呼ばれることになる。これはバリ島とロンボク島の間で真獣類と有袋類が別れることを発見した(アルフレッド・ウオーレスによる)ウオーレス線に比肩出来る発見である。


それでも日本人は「森を恐れ 森を愛した」

 コンラッド・タットマンは、日本の樹木が残ったのはこうした江戸時代の植林事業によるが、決して「日本人が森を恐れそして愛したから日本の森が残ったのではない」と謂う。ところが日本には、古くから植林に心掛けてきた歴史があるのだ。日本書紀の神代紀を繙(ひもと)くと、

 (前略) 初め五十猛(やそたける)神、天降ります時に、多に樹種を持ちて下がる。然れども韓地(からのち)に植ゑずして、尽に持ち帰る。遂に筑紫より始めて、凡て大八洲国の内に播殖して青山に成さずということ莫し。 (後略)
 一書に曰く、素戔鳴尊の曰く、「韓郷の嶋には、是金銀有り。若使吾が児の所御す国に、浮宝(うきたから)有らずば、未だ佳からじ」とのたまいて、乃ち鬚髯(ひげ)を抜きて散つ。即ち杉に成る。又胸の毛を抜き散つ。是、檜に成る。尻の毛は、是披に成る。眉の毛は是樟になる。(中略)時に素戔鳴尊の子を、号けて五十猛神と曰す。妹大屋津姫命。次に津姫命。凡て此の三の神、亦能く木種を分布す。  (後略)


 神代紀はこのあと、スギとクスノキで「浮宝=船」を造りなさいと続く。興味深いのは高天が原から持ち帰った木種をコリアでなく日本に植えるというところで、日本書紀によれば、スサノオは森林資源を植林という行為によって、あたかも日本の森を保護していったかのようであり、司馬遼太郎が製鉄族が樹木の涸渇したコリアを見限って日本にやってきたのだろうと書いたこととも一脈通じている。

 このように日本の植樹の歴史は実に神代の時代までも遡れることになる。もっとも植樹という言葉が大袈裟だとしても、森を依代としてそこに神を見るという思想は、遠く国の開闢以前に遡れることだけは間違いない。渡部昇一『かくて歴史は始まる』は、動物学者コンラッド・ローレンツの「刷り込み現象=インプリンテイング」説を援用して、

 日本では神社があるところ、かならず鎮守の森がある。というより、山があり、森はあるような ところには、かならず神社があるというのが、日本古来からの風景であった。(中略)
 この状態が2000年の長きにわたって、一度も絶えることなく続いた結果、森を見ればそこに 神聖さを感じるという「第二の天性」とも呼ぶべきものが、日本人の心の中に定着した。すなわち、「森に囲まれた神社」というイメージが、日本人の自然観を決定づけた。


 こうした日本人の自然観は、第2章で紹介した西洋の民の天性ともいうべき、「森の破壊」という行為と比較すれば、まったく対極にあるといえるだろう。タットマンは、過去日本における森林破壊の進行と、それを食い止めた江戸時代の植林の業績を評価するあまり、このような視点を欠如するか、あるいは無視しているようだ。

 たとえば一種の樹木信仰に近い巨木100選など、すくなくとも欧米先進国ですら見ることが出来ないものである最近世界自然遺産に指定された、高野山と熊野三山、それに出羽三山・比叡山・身延山・日光・弥山(宮島)・中尊寺などなど、日本の霊地といわれるところはすべて鬱蒼たる森に覆われている。それに伊勢神宮・明治神宮なども、人工林ながらすでに神韻縹緲として霊気あたりを払うものがある。たとえば観光の名所として人気の高い京都の神社仏閣群に、もしも樹木の彩りがなかったならば、おそらく人々の足は決してそちらに向くことはなかっただろう。

 こうした「神木・霊木・巨木信仰」が神仏の信仰と一体となって、いわゆる鎮守の森を形成し、結果として森林の保護を行ってきた。なお伊勢神宮を代表とする、(鹿島・香取神宮などの)式年遷宮を行う神社それに高野山などでは、自己の所領の山林で建て替えのための木材の植林を今なお続けている。聖域とされた鎮守の森と共にそうした仕組みもまた森林の保護に役立ってきたのである。

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